日本人の物語01493【室町/西国/大乱前夜】川上合戦
肥前千葉氏についての本を読んだので、だいぶ詳しくなりました。
義視還俗から富子出産までの間に肥前千葉氏の内紛「川上合戦」が起こっているので、紹介しておきましょう。
以前述べたとおり、小城城(おぎじょう:佐賀県小城市)を拠点とする肥前千葉氏では、胤鎮・胤紹兄弟の内紛が起こり、文安2(1445)年8月に兄の胤鎮が弟の胤紹を討ち、決着がついたのでしたね(01459回参照)。千葉氏の家督は、
・胤鎮の死後はその子の元胤(もとたね:1437~1464)に
・元胤の死後はその子の教胤(のりたね:1452~1469)に
移りました。
しかし、討たれた胤紹の子・千葉胤朝(ちばたねとも:?~1486)は不満をくすぶらせていました。胤朝は同様の不満を持つ今川胤秋(いまがわたねあき)を誘って、寛正6(1465)年5月に挙兵しました。
なぜ肥前国に今川一族がいるのか不思議に思われるでしょう。
今川了俊が九州攻略の際に、弟の仲秋を九州に上陸させたことをご記憶でしょうか。その了俊が九州探題を解任された際、弟の仲秋の末子の今川国秋(いまがわくにあき)を肥前に残したのです。その国秋の子が今川国治(いまがわくにはる)、そして国治の子が今川胤秋であり、肥前千葉氏の被官となっていました。
今川胤秋は、九州を制圧した伝説の勇将・今川了俊の弟の血を引き継いでいるのに、肥前千葉氏の被官に甘んじている現状に不満を感じ、胤朝の挙兵に協力したのでしょう。
5月20日。当主・千葉教胤は家老の中村胤頼(なかむらたねより:?~1465)を派遣し、反乱軍・今川胤秋の新庄城(佐賀県佐賀市)を攻撃させました。三日三晩の攻撃にもかかわらず、新庄城はなかなか落ちません。そのうちに中村軍の中から敵方に寝返る者が出始めました。
不利を悟った中村胤頼はやむなく包囲を解き、川上山へと退却しました。
すると5月24日夕方、今度は今川胤秋が川上山の中村軍に襲いかかりました。中村軍は大将の中村胤頼が射殺されるほどの大敗を喫しました。
今川の反乱はなんと2年もの長期に渡り、鎮圧されたのは応仁元(1467)年6月20日のことでした。千葉本家方が新庄城を攻撃し、今川胤秋の一族はことごとく討ち死にしました。
この反乱では、不思議と首謀者であるはずの千葉胤朝が戦った記録がありません。胤朝は今川一族を手足として使い、自らは一歩引いたところから戦局を見極めていたのかもしれません。
この3年後に今川胤秋の遺児が再起を図って千葉氏に再戦を挑むことになるのですが、それはまた章を改めてお話しすることになります。
「胤の字がついているのは大抵千葉氏の一族か家臣である」と聞いたことがあるのですが、古市胤仙などの例外もいますね。
