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日本人の物語01206【南北朝最末期】義満の権威 藤氏長者恫喝

このあたりの歴史は、平安中期の藤原氏全盛期を知っている者からみるとあまりに非常識で、時代の変化を感じます。。

 天授7/永徳元(1381)年7月23日。この日義満は内大臣に就任し、その就任儀式である「大饗」が開催されました。このとき義満は、大胆にも一条経嗣(いちじょうつねつぐ)を扈従させるよう二条良基に依頼するのです。
 一条家は前の当主・房経(ふさつね:1347~1366)が子のないまま死去したため断絶し、やむなく二条良基の三男・経嗣を養子として迎えていました。その一条家当主に対して、義満は自らに扈従せよと言ってきたのです。摂関家の当主が武家に扈従するなど考えられない事態です。
 義満の予想外の要求に対し、二条良基はもちろん断りました。すると義満が送ってきた書状は
「然らば況や愚身のごときは沙汰の外のことなり」
(ならば私はどうなっても良いというのだな)
と恫喝する内容でした。やむなく経嗣は息子を扈従させることに同意しますが、日記に
「この上は左右すること能はず。末代至極、却ってその興有る事なり」
(もはや仕方がない。世も末だが、かえって面白いじゃないか)
と愚痴っています。
 義満の大饗の儀式は前代未聞のものとなりました。公卿(大納言・中納言・参議)は全部で28人いますが、そのうち26人が出席。さらにそのうち21人は、義満が宴会中に座を立ったとき、一斉に席を立ちました。これは公卿の中でも特に高位の人物に対して行われる慣習で、内大臣に過ぎない義満に対して行われるのは異常です。一条経嗣は日記に
「古来未曾有、稀代の珍事」
と書いています。
 さらに8月3日、直衣始(のうしはじめ)の儀式にあたり、今度は三条実冬が義満の車の簾を上げる役を務めました。実冬の父・公忠は日記に
「臨期迷惑、言語道断の沙汰なり。然れども辞退せしめば、忽ち安否に及ぶべきか、無力の次第なり」
と記し、嘆いています。辞退すればどんなひどい目に遭うか分からないというのです。世間では「二条良基は武家に卑屈に接し過ぎだ」との批判も沸き起こりました。
 公家たちが義満に逆らえないのは、公家の保有する荘園が守護たちの武力によって略奪されてきたためでしょう。守護による略奪を止められるのは将軍義満しかいません。義満を敵に回すと、公家はその収入のほとんどを失うおそれがあるのです。

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