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日本人の物語01109【南北朝後期】仁木討伐 畠山の策謀

いよいよ新たな戦乱が始まりそうです。

 南朝の敵を退治したとして(実際には最後の一撃を加えずに帰ってきたのですが)、義詮たちが凱旋帰国しました。北朝の後光厳天皇は非常に喜び、
「大きな手柄である。褒美を出さねばなるまい」
と述べたものの、既にどの国もどの荘園もポストが埋まっていたので、義詮の元に集まった武士たちに与えるものは、官位くらいしかありません。
 その後、畠山国清の宿所に細川清氏、土岐頼康、六角氏頼らが集まって宴を開きました。酒に酔ってだんだん打ち解けてきたところで、畠山国清はこう述べました。
「何を隠そう、私が東国から参上した理由は、ただ南朝方の敵を退治するためではない。実は仁木義長の分を過ぎた振る舞いを鎮めるためなのだ。奴は4ヶ国の大きな荘園を治めているが、神仏を敬わず、将軍の命令をも軽んじている。
 今回の南朝との戦いに際しても、敵が勝った時は喜び、味方が勝ったときは悲しんでいた。これは忠臣の振る舞いとは言えない。しかも義長は西宮(兵庫県西宮市)という近い場所にいながら一度もやって来ず、酒席を設けることもしなかったのだ。このような不忠者に大国を支配させ、大きな荘園を領有させてよいのか。この機会に奴を退治してはどうだろう」
 これを聞いた一同は口々に同意しました。細川・土岐・六角とも仁木義長への恨みが溜まっていたようです。義長はちょうど兄・頼章を前年の10月に病で失ったところだったので、後ろ盾がなくなったこともあり、ここで恨みを晴らそうということになったのでしょう。
 この3人がなぜ仁木義長を恨んでいたのか説明しておきましょう。
 まず細川清氏については、前述した三条西洞院の敷地をめぐる問題(01082回)に加え、今回の戦でのトラブルもありました。三河の武将たちが三河守護たる仁木の配下に入らず、細川清氏の配下に入ったため、仁木が彼らの領地を取り上げたという事件があったのです。
 次に土岐頼康についても、所領をめぐるトラブルがありました。頼康の叔父・頼遠は光厳上皇に矢を射かけた罪で死罪となりましたが、仁木義長はその頼遠の息子を自分の養子にしたのです。明らかに土岐家の所領を狙っての行為でした。
 最後に六角氏頼については、高山氏という敵を討ってその領地を手に入れた際、これを仁木義長が「自分がもらうべき領地だ」と言って強引に支配しようとしていたことに恨みを抱いていました。六角氏頼と縁戚関係にある佐々木道誉もまた、この所領問題を憂慮して仁木を疎ましく思っていたようです。
 こうして、この酒宴で仁木討伐が決まったのです。

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