日本人の物語01185【南北朝末期】水島の変
戦国時代に詳しい人からみると、今川というと静岡県の人というイメージがあるでしょうから、島津家と対面して語らう場面など想像もつかないでしょうね。
再び九州情勢に目を転じます。
文中3/応安7(1374)年8月、今川了俊は宇木城(長崎県諫早市)を陥落させます。さらに9月には高畑城(福岡県北九州市)を陥落させ、南朝軍の主力が立て籠もる高良山(福岡県久留米市)を包囲しました。
10月には、籠城は困難と判断した南朝軍が高良山を捨てて逃亡しました。懐良親王も菊池一族も、元々の本拠地であった菊池(熊本県菊池市)へと逃れていきました。
いよいよ菊池攻めが始まります。10月7日に了俊は菊池家当主である菊池武朝に対し、本領安堵を条件に降伏を勧告する書状を送りました。書状には
「肥後平定に力を貸すならば、肥後守護職も与える」
との提案まであり、ずいぶん譲歩しています。
しかし一貫して南朝方として活動してきた菊池家が、いまさら寝返るわけもありません。返事がなかったことから、10月10日には了俊は鎮圧軍を菊池へ送り込みました。
菊池包囲戦はなかなか決着がつきません。冬頃には四国に渡っていた良成親王が菊池に戻り、懐良親王から征西将軍の職を譲られたとの記録があります。懐良親王はこの頃から病を抱えていたらしく、甥の良成親王を正式に後継者に据えたわけです。
包囲戦が膠着状態であったことから、いよいよ大将たる了俊自身が出陣することとなりました。文中4/応安8(1375)年4月8日、了俊は日岡山(熊本県山鹿市)に陣を布き、さらに天授元/永和元(1375)年7月には、水島(熊本県菊池市)にまで近づき、菊池の本拠地を叩く準備に入りました。
この水島で了俊は大事件を起こし、九州平定を遠ざけてしまいます。
了俊は菊池を殲滅するため、多くの大名に声をかけました。大友家は、当主の氏時が既に病死しており、その子である親世(ちかよ:?~1418)が来陣しました。8月11日には薩摩から島津氏久も来陣します。ところが日和見がちな少弐冬資が来ないので、了俊は島津氏久に、冬資を説得するよう依頼しました。
8月26日。参陣を渋っていた少弐冬資は、説得に応じてようやく姿を見せました。ところが宴席の場で了俊は、弟の仲秋に命じて冬資を殺させてしまうのです。いつ敵に寝返るか分からないやつは、今のうちに殺してしまおうということでしょう。
説得役だった島津氏久は激怒し、無断で薩摩へと帰国してしまいました。了俊は「筑後国の守護職を与えるから戻ってこい」と書状を送りましたが氏久の怒りは解けず、島津家はそのまま南朝方に寝返ってしまうのです。この事件を「水島の変」といいます。
結局、了俊の行った冬資暗殺は、いたずらに敵を増やしただけでした。了俊は菊池家を滅ぼすどころか、敵に囲まれて勢いを失い、9月8日には水島からの撤退を余儀なくされてしまいます。
