日本人の物語01350【室町/義教期】義教、将軍就任
ここからは一揆の話が多くなります。
宇陀の郡内一揆に続いて、播磨国一揆について説明します。これは日本初の「国一揆」です。
土一揆は「土民」(現代では農民に対する蔑視語とみられることが多いようですが、当時普通に使われていた言葉です)が蜂起して金融業者を襲撃するものですが、国一揆は国全体の規模で発生し、徳政令の発布を求めたり守護を追放しようとしたりするものです。
正長2(1429)年1月。播磨の土民らが播磨守護・赤松家に反抗して一斉に蜂起しました。このことを中山定親は日記『薩戒記』にこう記しています。
「播磨国の土民、旧冬の京辺の如く蜂起し、国中の侍悉く攻むるの間、諸庄園代、之に加へ守護方の軍兵、彼等の為に或ひは命を失ひ、或ひは追ひ落とさる。一国の騒動希代の法なりと云々。凡そ土民、侍をして国中にあらしむべからざる所と云々。乱世の至なり」
つまり、播磨国の土民たちが、昨年冬に起こった正長の土一揆のような形で蜂起し、国じゅうの武士たちをことごとく攻撃したというのです。各荘園に設置された代官や守護方の兵たちは、反乱軍によって殺されたり追放されたりしました。国じゅうがこうした騒動に見舞われるのは大変珍しいことです。
そして土民は、「侍をして国中にあらしむべからざる所」、つまり「武士は一切播磨国にいるな」と言って追い出そうとしたわけです。
結局、この一揆は播磨守護・赤松満祐に鎮圧されたわけですが、正長の土一揆が呼び水となり、一国まるごと巻き込んで一揆が起こるようになったことは実に興味深い事実です。15世紀は民衆の世紀と呼ばれる所以です。
こうした不穏な情勢の中で、義教はようやく念願の将軍就任を果たすこととなります。
義教はまず3月9日に元服式を行いました。髪が伸びたとはいえまだ長さが足りず、烏帽子がひどく着けにくかったため、烏帽子懸(えぼしがけ)を用いたといいます。
そして3月15日に征夷大将軍宣下があり、同時に参議・左中将に就任しました。
将軍職を狙っていた持氏にとっては、これで敗北が決まったわけです。余程悔しかったのか、鎌倉府は通例なら送ってくるはずの慶賀使(将軍の代替わりを祝うための使節)を送りませんでした。このことは幕府に不信を抱かせるには十分でした。
半年経った9月3日になってから、鎌倉府は慶賀使を送らずにいた理由を弁明する使節を送りましたが、幕府側は「文書に不備がある」としてその受け取りを拒否しました。義持の時代から既に悪かった幕府と鎌倉府の関係はさらに悪化し、やがては義教と持氏の武力衝突へと発展していきます。
「武士は一切播磨国にいるな」とはすごいですね。この後、実際に武家政権を国内から駆逐してしまう「加賀の一向一揆」というのが起こるのですが。
