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日本人の物語00835【建武期】尊氏の戦意喪失

 そもそも鎌倉を新田義貞と足利千寿王が占領していた頃から、足利・新田間の対立の火種はくすぶっていました。鎌倉に集う武士たちの人事権や荘園の領有権をめぐる対立があったのです。
 こうした組織間の対立は、トップ同士が対立しているというよりも家臣同士が感情的になっているケースが多いように思われます。幕府滅亡直後、足利千寿王を推戴して足利家を支えていたのは家臣の細川和氏でしたが、この細川和氏やその配下の兵たちが新田を敵視したのでしょう。
 その後、直義が鎌倉に派遣されたことで、この対立はさらに深刻化したことでしょう。直義は殿ノ法印の事件(00819回参照)で知られるように、自分が正しいと信じたら敵を徹底的に挑発する傾向があります。
 このように、細川和氏や足利直義が新田との根深い対立を作ってしまった鎌倉に、遅れて尊氏がやって来たわけですが、尊氏もまたこの対立構造に飲み込まれてしまいます。おそらく尊氏には、積極的に義貞と対立しようという意図はなかったはずですが、個性の強い弟に引っ張られてしまったのでしょう。当時の軍勢催促状(各国に味方になってくれるよう呼びかける文書)が尊氏名ではなく直義名で出されていることからも、尊氏が乗り気ではなかったことが窺えます。
 建武2(1335)年11月19日。新田義貞が尊氏討伐のため京を出発しました。天皇の軍隊であることを強調するため、後醍醐天皇は長男・尊良親王に「上将軍」の称号を与えた上で新田軍に付けました。
 尊氏討伐の綸旨が下ったことを知った直義は、
「鎌倉でただ敵を待つべきではない。新田軍を打倒するべく、矢矧で待ち構えましょう」
と兄に呼びかけますが、なんと尊氏は弱音を吐き始めます。
「我ら足利氏は源氏の一族といえども、北条氏に辱められてきた。そこを従三位にまで引き上げていただき、征東将軍の職を与えてくれたのは帝ではないか。考えてみれば、帝がお怒りの理由は護良親王を殺害したことと、諸国の武士に召集をかけたことの2点であるが、これはいずれも私の意志で行ったことではない。弁明すればお許しいただけるだろう」
 これには直義や足利家家臣らはびっくりしました。
 「京に帰らない」「諸国の武士を召集する」といった強気な態度に出ていたのは直義であって、尊氏はそれに反対していたようです。直義はあれこれと尊氏の説得を試みますが、尊氏の意志は強く、天皇に降伏するといって聞きませんでした。

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