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日本人の物語01517【室町/東国/享徳の乱】一進一退の攻防

ちょっと退屈なくらいに一進一退の経緯を延々と描いております。

 幕府では成氏討伐令を出したものの、京から大規模な鎮圧軍が送り込まれたわけではなく、戦闘のほとんどは関東の上杉方に任されています。そして上杉方は強大な成氏軍を攻めあぐねています。
 康正元/享徳4(1455)年12月3日には、上杉方の岩松家純が武蔵国須賀(埼玉県行田市)で成氏軍と戦いました。岩松家純は家宰・横瀬良順(よこせよしまさ:?~1455)が戦死するほどの大敗を喫しました。
 12月6日には騎西郡(埼玉県加須市)の戦いがありました。騎西城まで敗走していた長尾景仲が成氏方に取り囲まれ、あえなく城が陥落してしまいます。景仲の城が陥落して敗走するのはこれで3度目(小栗城→只木山→騎西城)です。
 勝利を重ねた成氏は、12月11日に古河に凱旋帰国しました。この頃の成氏から岩松持国宛ての書状では、
「(山内上杉)房顕を討ち漏らしたことは無念の至り」
と語っており、房顕をあと一歩で討ち取れるほど追い詰めていたことが分かります。さっきまで負け戦の多かった成氏が、徐々に勢いを取り戻しています。
 この頃、成氏は腹心の武田信長を下総国に、里見義実を安房国に派遣しています。具体的な時期は不明ですが、数年後には
・武田信長は真里谷(まりやつ:千葉県木更津市)を
・里見義実は稲村(千葉県館山市)を
それぞれ拠点とした大名に発展し、真里谷武田家・安房里見家などと呼ばれるようになります。特に里見家は江戸時代のベストセラー小説『南総里見八犬伝』で有名ですね。ただ、里見家の始祖とされる里見義実は後世に作られた史料にしか登場せず、実在を裏付ける証拠がありません。
 さて、成氏は数少ない味方を分散させるほどの余裕はなかったはずでした。というのも、康正2/享徳5(1456)年1月下旬には岩松持国から「上杉勢による総攻撃が行われるらしい」との情報が入り、対応に追われていたようです。
 成氏は古河で敵を待つよりも、敵の本拠である上野国(群馬県)に近づいて決戦しようと考えました。2月26日、成氏は上野国深須(前橋市)・赤堀(伊勢崎市)・大胡(前橋市)・山上(前橋市)で上杉軍と戦いますが、赤堀時綱(あかぼりときつな)が戦死するほどの大敗を喫しました。
 ところが成氏はその1週間後には大逆転を遂げます。3月3日に茂木(栃木県茂木町)で宇都宮等綱に勝利したのです。等綱は出家した上で成氏に降伏し、これ以降成氏のために戦うことを誓いました。やがてまた寝返って上杉方となるのですが、いずれにせよ、成氏と上杉の戦いはまさに一進一退です。

この時代は後世の創作が混じって、何が史実なのか分かりづらくなっています。

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