日本人の物語01510【室町/東国/享徳の乱】江ノ島合戦
鎌倉付近はいろんな史跡がありますが、江ノ島合戦に関する碑などは見つけられませんでした。
文安6(1449)年7月に鎌倉公方に就任した成氏は、さっそくトラブルを起こします。永享の乱の敗者の所領を復活させようとして、周囲と対立したのです。さらに周囲の反対をよそに下総結城氏朝の子に「成」の字を与え、結城成朝(ゆうきしげとも:1439~1463)と名乗らせて重用しました。下総結城氏朝は成氏からみると父を助けてくれた忠臣かもしれませんが、幕府からみると逆賊です。
そして翌年には早くも武力衝突が起こりました。
宝徳2(1450)年4月20日。「長尾景仲と太田道真が結託して成氏を襲撃しようとしている」との風説を聞いた成氏は、鎌倉を脱出して江ノ島(神奈川県藤沢市)へ向かいました。この風説とやらが真実かどうかは不明で、「成氏方が長尾・太田に難癖をつけて先制攻撃しようとしたのでは」との説もあります。
4月21日。長尾・太田軍は成氏を追って江ノ島に向かいましたが、その途中の腰越で成氏方の小山持政軍と衝突しました。小山持政といえば永享の乱と結城合戦のときは上杉方(つまり鎮圧側)に与したはずですが、なぜか今回は成氏方に属しています。
腰越の戦いでは小山持政軍が善戦し、長尾・太田軍は撤退を余儀なくされました。さらにその後、由比ヶ浜で成氏方の千葉・小田・宇都宮連合軍が長尾・太田軍を破ります。敗れた長尾・太田軍は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)の扇谷家の館まで撤退しました。この一連の戦いを「江ノ島合戦」と呼びます。成氏が潜伏していた江ノ島自体は合戦の舞台になっていないはずなので、おかしな名称ですね。
この江ノ島合戦には、扇谷家当主の持朝は参加していたようですが、山内家当主(関東管領)の憲忠が参加した記録がありません。やはり鎌倉府は長尾・太田の2名にコントロールされており、20歳の憲忠には何らの実権もなかったものと思われます。
合戦に勝利した成氏は、伊豆に引退していた憲実と連絡を取り、憲実を仲介役として長尾・太田との和睦を模索しました。残念ながら憲実はこうした政治的な仕事を一切引き受けてくれませんでしたが、その甥である越後上杉房定が仲介役となり、和睦がなされました。房定は越後に住んでいたはずで、書状のやり取りには相当な時間がかかったはずですが、当時の人々は気が長かったのでしょう。
成氏方が提示した和睦の条件は、
「両上杉家当主(つまり山内上杉憲忠と扇谷上杉持朝)の罪は問わないが、長尾景仲・太田道真は処罰する」
というものでした。持朝は(というより、持朝を操る長尾・太田は)これに応じず、七沢山(神奈川県清川村)に立て籠もって抵抗を続けます。
京都と茨城の人の戦いを仲介するのに新潟の人を使うとは、当時の人たちは気が長かったんですね。
