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日本人の物語00386【平安後期】74代鳥羽天皇

 嘉承2(1107)年7月19日。堀河天皇は28歳の若さで崩御しました。その子の宗仁親王(むねひとしんのう:1103~1156)が、4歳5ヶ月で即位しました。鳥羽天皇です。
・父:堀河天皇
・母:藤原苡子(ふじわらのしげこ:1076~1103)
・外祖父:藤原実季(ふじわらのさねすえ:1035~1092)
 天皇が幼少のため、藤原家の長である藤原忠実が摂政となりました。
 このとき、公卿・藤原公実(ふじわらのきんざね:1053~1107)が
「外戚ではない者が摂政になった例はありません。忠実は摂政にふさわしくありません」
などと要らんことを白河法皇に進言しました。公実は実季の子ですから、自分が摂政に就きたかったのでしょうが、白河法皇はこれを無視して忠実を起用しました。
 藤原公実は、同年11月14日、失意のうちに死去しました。公実の子で、当時6歳だった璋子(たまこ:1101~1145)が一人残され、白河法皇がこの子を引き取って育てることとなりました。白河法皇はひどく璋子を気に入ったようで、愛妾・祇園女御(ぎおんのにょうご)と二人で、本当の両親のように親身になって育てたようです。
 ちなみに、だいぶ先の話ですが、この後璋子の産んだ皇子が天皇となるので、藤原公実の系譜は格が上がり、三条、西園寺、徳大寺の各氏を生むこととなります。
 この璋子は、後に保元の乱の遠因となる重要人物ですので、ぜひ記憶にとどめていただければと思います。
 さて、源義親の乱によって源氏が衰退しつつある中、更にその傾向が強まる事件が発生しました。天仁2(1109)年2月3日、源氏の棟梁であった源義忠が何者かに斬られ、2日後に死亡したのです。家督は急遽14歳の源為義が継ぐこととなりました。
 義忠暗殺犯として疑われたのは、源義綱でした。藤原師通が仏罰で死んだことで完全に失脚していた義綱は、源氏内でも特に没落した人物であり、棟梁・義忠に遺恨を持つのは確かに頷ける話です。
 義綱は無実を主張し、甲賀山(滋賀県甲賀市)に逃亡しましたが、白河法皇の命を受けた為義がこれを討伐しました。義綱は出家して投降しましたが、佐渡に流罪となり、その後殺害されます。
 その後、なんと真犯人は義綱ではなく、その弟の義光であったことが発覚しました。義光は常陸国に逃亡し、天寿を全うしたようです。
 こうして、頼義の子らは3人とも(義家・義綱・義光)が全員死去又は失脚し、源氏の実力者は不在となりました。源氏の運命は、義家の孫にしてまだ年少の為義に託されることとなったのです。
 これを契機に、ますます源氏の影響力は衰え、平氏にとって代わられることとなります。

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