日本人の物語01660【室町/西国/六角征伐】清晃と義材
義尚、21歳の若さで早くも酒浸りだったそうで。いやでも大学時代、酒浸りの21歳は私の周りにも数人いた気がします。
話を六角征伐直前の京に戻します。
義尚自身は立派な将軍になるべく必死に奮闘しているのですが、なぜか周囲は義尚の後継将軍をどうするか、密かに準備を進めていました。一説によると義尚は酒浸りで体を壊しており、もう長くないとみられていたそうです。
義尚が子を持たないまま死去した場合、後継将軍はその従兄弟の中から選ぶこととなります。そのため、義政の兄弟たちが「我が子を将軍に」と願って運動を始めました。
真っ先に運動を開始したのが、堀越公方足利政知でした。
前述のとおり、政知は享徳の乱が始まると、成氏の代わりに鎌倉公方となるため鳴り物入りで幕府から派遣された人物でした。ところが、上杉方との関係構築が上手く進まず、堀越(静岡県伊豆の国市)で足踏みしていました。
そして前章で見てきたとおり、この頃には享徳の乱が終結し、政知にとって悪いことに成氏は引き続き古河を拠点として関東の一部を治めることが許されてしまいました。一方の政知は堀越を拠点に伊豆一国を治めるだけとなり、これでは「伊豆守護」に任命されたのと同レベルであり、足利一門として十分な処遇を受けているとはいえません。
かくも中途半端な地位に置かれた政知が、我が子を次の将軍にしたいとの夢を持ったことは当然のなりゆきでしょう。
文明17(1485)年12月。政知は6歳の次男・清晃(義澄)を天龍寺香厳院の後継と定めて、伊豆から京に送り出しました。「高僧になるための修行」という名目ですが、実際には次期将軍を目指すためだったと考えられます。文明19(1487)年6月25日に清晃は香厳院に入り、僧侶となりました。
一方、「息子を次期将軍にしたい」と願った人物がもう一人いました。美濃に引き籠もっていた足利義視です。
義視の子は文明19(1487)年1月に22歳で元服し、義材(よしき)と名乗っていました。義材は改元直後の長享元(1487)年8月、従五位下・左馬頭に叙任されています。元服後一度も上洛していない義材が突然叙任されたのは、日野富子の計らいによるものでしょう。清晃を次期将軍として擁立しようという勢力がいることを知った富子が、急いで義材を擁立したものと考えられます。
義視は将軍後継の座を義尚と争った人物ですから、そんな義視の子を富子が推すとは意外の感がありますね。しかし富子にとって、義視の子・義材と政知の子・清晃とを比べると、妹が産んだ義材の方が受け入れやすかったのでしょう。
しかし、富子の歩み寄りにもかかわらず、義視・義材父子はなおも上洛しませんでした。
次期将軍候補が二人登場しましたね。まあどちらも今後将軍になるのですが。
