日本人の物語01252【室町/義満期】大内義弘の野心
山口の大内義弘が鎌倉の足利満兼と手を結んで「一緒に幕府を滅ぼそう」と約束したとしても、連携するには少々遠すぎる気もしますね。
大内義弘の政権内での立ち回りはあまり上手いとはいえません。九州探題・今川了俊が解任されて以来、大内家は事実上、明との貿易を独占しており、多くの財を手に入れていました。こうしたことで目立っては、山名家のように義満からつぶされてしまいます。
一方、斯波義将などはバランス感覚に優れた人物だったようで、応永5(1398)年8月4日、管領の座を畠山基国に譲って自身への権力集中を避けました。これまで細川派と斯波派がやたらと争ってばかりいましたが、基国がいずれにも属さない中間派としてめきめき力をつけていたことが窺えます。畠山家は国清の反逆によって一時は再興不可能かと思われるほど落ち込みましたが、国清の弟・義深が許されて越前守護に就任したこと、義深の子・基国が明徳の乱で活躍したことを機に、再び幕府内で中枢の地位を占めるようになり、遂に斯波・細川と並ぶ三管領の一角を射止めることとなったのです。
こうしたバランス感覚の妙を知らない大内義弘は、野心に突き動かされていきます。応永5(1398)年10月、義満の命を受けて九州に下向し、少弐・菊池との戦いの最前線に立ったのですが、一方で鎌倉府と連絡を取り合っていたことが分かっています。鎌倉府では応永5(1398)年11月4日に2代公方足利氏満が死去し、その子の満兼(みつかね:1378~1409)が3代公方に就任したのですが、義弘はこの満兼と連絡を取っていたようです。
歴代鎌倉公方は、将軍に成り代わりたいとの権力欲を持った人物が多いのですが、3代満兼もその例に洩れません。そのような人物と関わるとは、義弘はひどくリスキーな行為に手を染めています。
さらに応永6(1399)年5月には、大内義弘は義満の許可を得て倭寇を禁圧しました。倭寇の抑止は明からも朝鮮政府からもたびたび要望されていたことであり、九州にその本拠があるとみられていたことから、その禁圧は確かに九州探題たる大内義弘の仕事でした。しっかりと義満の許可を得た上で軍を動かしたものであり、一見すると何の問題もない行為に見えます。
ところが大内義弘は7月に、幕府に内密で朝鮮王朝に対して
「倭寇を更に禁圧していくため、私が百済王の子孫であることを認める文書を発給いただきたい。あわせて朝鮮半島に所領をいただきたい」
と申請していたことが朝鮮側の史料に残っています。(大内家は以前から百済王の子孫を自称していますが、真実かどうか定かではありません。)
朝鮮王朝は第一の要求については認め、義弘を「高義弘」と呼ぶ文書を発給しました(高とは朝鮮王家の苗字です)が、当然ながら第二の所領の要求については認めませんでした。
義弘は言わば幕府に仕えるとともに朝鮮王朝にも仕えようとしたわけで、もし幕府にバレたら反逆の準備とみられても仕方ありません。結局露見せずに済んだようですが、実に危ない橋を渡っています。
