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日本人の物語00273【平安前期】58代光孝天皇

 元慶4(880)年。藤原基経は太政大臣に就任します。父・良房に続き、まさに位人臣を極めたといってよいでしょう。
 元慶8(884)年。陽成天皇は譲位を決意しました。まだ17歳の若さでした。
 次の天皇を誰にすべきか、公卿たちが話し合う陣定(じんのさだめ)が開かれます。(なぜか、陽成天皇の子たちは候補には上がりません。)
 このとき、源融(みなもとのとおる:嵯峨天皇の十二男:822~895)が「血筋を求めるなら、わたくし融などもおりますが」と発言しました。
 これに対して基経は、「一度臣下になった者が皇位に就くことは前例もなく認められない」と一喝し、さらに参議・藤原諸葛(ふじわらのもろくず:826~895)が「太政大臣の意向に異議を唱える者は誅殺するぞ」と威嚇を加えました。政府の最高決定機関たる陣定において「殺すぞ」という威嚇発言が出るとは、あまりに物騒です。基経の権力はそれほどのものだったのでしょう。
 そして基経らの議決によって54歳の時康親王(ときやすしんのう:仁明天皇の三男:830~887)が選ばれ、2月4日に即位しました。光孝天皇です。
 光孝天皇は、陽成天皇にとっては大叔父ということになります。ずいぶん高齢ですね。まだまだ若い17歳の天皇が、54歳の大叔父に譲位したのはなぜだったのでしょうか。
 譲位の理由について、公式には「病のため」と記されているのですが、陽成天皇はその後82歳まで生きているので、実際の理由は別にあると思われます。
 そのヒントとされているのが、公式歴史書である『日本三代実録』の記述です。陽成天皇が譲位する直前に、「陽成天皇の乳兄弟・源益(みなもとのまさる:?~883)が禁裏内で殴り殺された」との一節があるのです。
 禁裏内において殺人事件が起きたというのに、その犯人が誰なのか、一切触れられていません。そしてその後の人事を見ても、何ら処分を受けている者が見当たりません。
 これこそ、陽成天皇譲位の原因だったのではないでしょうか。つまり、陽成天皇が殺人を犯したのではないかということです。
 17歳で退位した陽成上皇は、その後65年間もの期間を上皇として過ごすこととなります。
 ちなみに陽成上皇といえば
「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」
という歌が百人一首に収録されていることが有名ですね。とても人を殺すような激しい気性の人物が詠む歌とは思えませんが、真相は藪の中です。
 さて、この譲位によって「文徳-清和-陽成」と続いた系統が途絶え、以後は文徳の弟である光孝の系統が皇位を継承していくこととなります。現在の天皇も光孝天皇の子孫なのです。

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