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日本人の物語00883【建武期】第二次京都合戦 一騎討ちならず

 東寺が四条隆資の軍に包囲される中、尊氏側近の土岐頼貞(ときよりさだ:1271~1339)が
「ああ、息子の悪源太を北に向かわせずにここに留め置いておれば、この程度の敵は簡単に追い払ったでしょうに」
と悔しがりました。悪源太とは「荒く猛々しい長男」くらいの意味で、土岐頼直(ときよりなお)の異名です。平安末期には源義平の異名としても使われていましたね。
 ちょうどそこに頼直が颯爽と戻って来ました。既に出撃したはずの頼直は、東寺から煙が上がったのを見て味方の苦境を知り、引き返してきたのです。敵を追い払おうと出陣する頼直に、尊氏は腰の太刀を与えました。
 頼直は北門から出て西へ回り、敵を遠くから矢で狙い、一本の矢で2、3人を射倒します。四条隆資軍が恐れて退いたところに、頼直は敵陣真っ只中を駆け抜けて敵を次々斬っていきました。敵の勢いが弱まったところに、高師直・師泰兄弟が兵を率いて攻勢に出ると、四条軍は次々と逃げ出していきました。
 このように東寺の戦いでは後醍醐方が敗れてしまったわけですが、新田義貞・脇屋義助兄弟はそれを知らないまま2万騎で京に押し寄せてきました。三度目の決戦です。
 六条通りで足利軍と新田軍の戦いが始まります。当初は新田軍の勢いが強く、義貞ら2万騎は尊氏の本陣である東寺の前まで押し寄せて来ました。
 義貞は東寺に向かって言い放ちます。
「天下の乱れが止むことなく、罪なき人民が身を安んじられなくなって長年が経った。これは皇室の両統の争いでもあるが、ひとえにこの義貞と尊氏との争いである。多くの人を苦しめるより、一対一で戦いを決しようではないか」
 そう言って義貞が放った矢は、高櫓の上を越えて尊氏のいる本堂の柱に突き刺さりました。これを見た尊氏は、
「私は鎌倉を発った時から、全く帝(後醍醐天皇)をお倒ししようなどと考えたことはない。全ては義貞への恨みを晴らしたいだけである。だからあの者との一騎討ちは望むところである。門を開き、討って出よう」
と述べました。二度の敗北を経て不利な状況に陥っている義貞が、一騎討ちで逆転を狙っているわけで、これを受けて立とうとする尊氏はあまりに愚かです。
 家臣の上杉重能が鎧の袖に取り付いて必死に止めたため、一騎討ちにはなりませんでしたが、尊氏はここぞというときに危うい選択をしてしまう武将のようですね。

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