日本人の物語00535【鎌倉初期】静の舞
文治元(1185)年11月12日に、義経と今生の別れを終えた静は、その後すぐに鎌倉勢に捕らえられ、尋問を受けていました。北条による取り調べが終了し、文治2(1186)年3月1日には母・磯禅師(いそのぜんじ)とともに鎌倉に連行されることとなりました。
この頃、静の妊娠が発覚します。謀反人である義経の子を宿していると知り、鎌倉方も大いに警戒したことでしょう。
鎌倉に到着した静は再び尋問を受け、義経の居場所やこれまでの逃走経路を問われますが、静は嘘をついて必死に義経を庇い続けました。
さて、舞の名手として有名な静が鎌倉に来ていると聞き、御家人たちはその舞を見たいと騒ぎ始めました。北条政子は頼朝に
「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なことです。八幡大菩薩に舞を奉納させてはどうでしょう」
としきりに薦め、静自身は
「気が塞いでいるので舞う気にならない」
と固辞していたものの、政子の再三の説得に折れ、4月8日に鶴岡八幡宮において舞を披露することとなりました。
このとき静が舞いながら歌を詠み上げるのですが、その内容に御家人たちがざわざわとしました。
「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山で雪を踏み分けて去ってしまった人が恋しい)
「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」
(しづ、しづと名前を繰り返し呼んでくれたあの方が時めいていた時代に戻ればいいのに)
なんと、静は御家人たちが集まる場で、謀反人たる義経を恋い慕う歌を披露したのです。
頼朝は激怒しますが、政子は
「あなたが石橋山の合戦に敗れたとき、私は伊豆山権現でお待ちしておりましたが、あのときどれだけ心細かったことか。あのときの私と今の静は同じです。これぞ貞女の鑑ではありませんか」
と静を弁護しました。
その後、静の臨月が近づきました。頼朝の命は「女ならよいが、男なら殺せ」というものでした。果たして、閏7月29日、産まれてきたのは男児でした。政子は必死に助命嘆願しましたが聞き届けられず、男児は生後すぐ由比ヶ浜に沈められます。
出産後、静とその母・磯禅師は、もはや用済みとばかりに京へ戻されました。政子と大姫は同情を惜しまず、多くの重宝を持たせたとのことです。静のその後の消息は分かっていませんが、あまりの人気のため、全国各地に静が晩年を過ごしたとの伝説があります。
