見出し画像

日本人の物語01361【室町/義教期】留守家の内紛

留守家の人名をたくさん覚えておけば、日本人名縛りのしりとりで無双できそうですね。

 鎌倉公方足利持氏がようやく大人しくなりましたが、この頃、持氏の権力は東北にまでは及ばず、奥州探題たる大崎持兼(おおさきもちかね)が東北を牛耳っていたと考えられています。というのも、具体的な年代は不明ながら永享年間に起こったと考えられる留守家の内紛について、大崎持兼が強力な権限をもって介入した記録があるのです。
 留守家とは、岩切城(仙台市宮城野区)を拠点とする国人でした。正平6/観応2/貞和7(1351)年2月に、留守家冬が尊氏党の畠山国氏に味方して直義党の吉良貞家に敗れたことは述べましたが(01021回参照)、その後徐々に勢いを落とし、応安年間(1368~1375)には隣人の国分氏に所領を奪われてしまいました。
 そこで当主の留守家明(るすいえあき)は、奥州探題・大崎持兼の権威を借りて旧領を取り戻そうと、持兼の弟の大崎直兼(おおさきなおかね)を岩切城に招いてもてなしました。
 ところが直兼はちっとも国分氏討伐に動こうとせず、むしろ留守家明の権益を吸い取ってばかりでした。留守家明は「もはやこの主君は頼りにならない」と考え、排斥に動きます。奥州探題の大崎持兼も弟の不甲斐なさに嫌気がさしたのか、弟を召し返して謹慎させました。
 さて、留守家での代替わりがあり、留守詮家(るすあきいえ)の時代になりました。この詮家の時代に、留守家の宿老である村岡氏で時ならぬ家督相続争いが起こります。当主の村岡総州(むらおかそうしゅう)に対して、村岡宮内少輔(むらおかくないしょうゆう)が当主の座を奪おうと決起して敗れ、追放されたのです。
 諦めの悪い村岡宮内少輔は、弟の村岡兵部少輔(むらおかひょうぶしょうゆう)とともに兵を集め、なんと総州を討ち取ってしまいます。
 宿老を殺されたわけですから、主家として黙って見ているわけにはいきません。留守詮家は兵を率いて村岡宮内少輔・兵部少輔兄弟を討つべく出陣しましたが、ここで奥州探題の大崎持兼が止めに入りました。なんと持兼は反乱軍である宮内少輔に味方し、留守詮家に切腹を命じたのです。持兼はかつて弟・直兼が失脚した際、詮家に理解を示す様子を見せていながら実際には恨んでいたのかもしれません。
 詮家切腹により、留守家の家督をめぐって2人の弟が争い始めました。三郎二郎(さぶろうじろう)と持家(もちいえ)の争いです。
 村岡宮内少輔は大崎持兼と結んで三郎二郎を支持しましたが、一方の村岡兵部少輔は伊達氏と結んで持家を支持し、勝利しました。こうした紛争を通して、留守家は徐々に奥州探題大崎氏を信頼できないと考え始め、やがて大崎氏から離反して伊達氏に従属するようになっていきます。

留守という苗字は今も少数ながら存在するそうですね。なくならないでほしいです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集