見出し画像

日本人の物語01509【室町/東国/享徳の乱】小笠原家の内紛

小笠原家は信濃守護を務めるほどの家柄なのに、いまいち知名度が低いですね。アニメ『逃げ上手の若君』のおかげで少し有名になったかもですが。

 ここで少し時間をさかのぼって、信濃の混乱について見ていきたいと思います。
 信濃守護の小笠原政康は嘉吉2(1442)年8月9日に67歳で死去し、その家督は嫡子の小笠原宗康(おがさわらむねやす:?~1446)が相続していました。
 このとき、宗康は家督と守護職のほか、本領である伊賀良荘(長野県飯田市)の領地を継承したのですが、政康の甥である小笠原持長(おがさわらもちなが:1396~1462)がこれに猛反発しました。
 そもそも持長の父・小笠原長将(おがさわらながまさ:?~1440)は小笠原家の嫡流でしたが、結城合戦で戦死してしまい、それ以降、長将の弟である長秀、さらにその弟の政康へと家督が引き継がれた経緯がありました。持長が「本来ならば嫡流である自分が家督を継ぐべきなのに」と不満を持ったことは理解できます。
 この争いは幕府の法廷に持ち込まれました。文安2(1445)年に宗康方が勝利したものの、持長はこれに納得せず、武力衝突へと発展してしまいます。
 文安3(1446)年8月9日。小笠原宗康VS持長の従兄弟対決が漆田原(長野県長野市)で行われ、宗康は重傷を負って死亡しました。
 当然、宗康の家督は息子の小笠原政秀(おがさわらまさひで:?~1493)が継ぐべきところですが、宗康の弟の小笠原光康(おがさわらみつやす:?~1486)が
「兄は戦の直前、『万一私が討ち死にしたときは、息子が成長するまでの間、家督を守ってほしい』と言い残していたのだ」
と主張し、松尾城主の座を継いでしまいました。本当にそんな遺言があったかどうかは定かではありません。政秀は叔父による家督収奪に大いに不満を持ちました。
 さて幕府は、裁判の結果を受け入れず勝手に武力に訴えた持長に怒り、信濃守護職を光康に与えることに決しました。
 ところが幕府もこの頃は一枚岩ではありません。細川家に取り入ることに成功した光康に家督が許された一方、持長は畠山家に取り入ります。幕府内でも細川・畠山両家の激しい政争が起こり、信濃守護職は
「光康→持長→光康」
と目まぐるしく入れ替わることとなりました。
 その後、政秀が成長したにもかかわらず、光康は約束を破って家督を譲ってくれませんでした。政秀はやむなく松尾城を諦めてその近傍にある鈴岡城に入り、小笠原家は
・府中(長野県松本市)を拠点とする府中小笠原家(持長)
・松尾(長野県飯田市)を拠点とする松尾小笠原家(光康)
・鈴岡(長野県飯田市)を拠点とする鈴岡小笠原家(政秀)
の3派に分裂していったのです。

小笠原家が3つに分裂した、という結論だけ覚えておいていただければ十分です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集