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日本人の物語00262【平安前期】承和の変 伴健岑の手紙

 承和9(842)年。嵯峨上皇が病の床につきました。
 前々回、嵯峨・仁明父子と淳和・恒貞父子との皇位継承をめぐる混乱について述べました。
 現時点で天皇位にある仁明は嵯峨の子で、現時点で皇太子である恒貞親王は淳和の子です。しかし、嵯峨上皇と強いパイプを持つ藤原良房らは、当然、皇太子・恒貞親王を廃して、嵯峨系に皇位を継承してほしいと希望していました。
 一方、恒貞親王にとっては天皇になりたいといった野望はなく、皇太子に祀り上げられたこと自体が迷惑な話でした。父の淳和上皇からも、恒貞親王本人からも、何度も皇太子を辞退したいと申請しては、嵯峨上皇から慰留されていたのです。
 淳和上皇は既に2年前に病死しており、恒貞親王には強力な後ろ盾がいません。頼れる相手といえば、伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢といった側近だけでした。
 恒貞親王に仕える伴健岑もまた、決して恒貞親王の即位を望んでいるわけではありません。ひたすら身辺の安全を考え、どうにか皇太子の座から降ろしてやることはできないかと思案に暮れていたのでしょう。伴健岑は、嵯峨上皇が病に倒れたことで、
「近々、皇太子のお命が狙われるのではないか」
と考え、味方を増やそうと必死に画策し、阿保親王(あぼしんのう:792~842)に手紙を書き送りました。
 阿保親王とは平城上皇の第一子で、薬子の変に連座して大宰権帥に左遷された人物です。言わば天皇への道を閉ざされた一族ですから、藤原氏のことを快く思っていないはず……きっと味方になってくれるだろう、と期待したのでしょう。
 公式歴史書である『続日本後記』では、この伴健岑の手紙には、
「何らかの戦乱が起こると予想されるので、恒貞親王を安全な場所に避難させるべく、東国にお連れするつもりだ」
と書かれていたといいます。これは素直に読むと
「放っておくと恒貞親王が殺されてしまうので助けたい」
という趣旨でしょうが、裏の意図を読むと
「恒貞親王を避難させておいて、その間に戦乱を起こすつもりだ」
とも読めなくはありません。
 このどちらとも読める曖昧な文章が、恒貞親王派にとって運の尽きとなってしまいます。いよいよ「承和の変」と呼ばれる政変が始まります。

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