日本人の物語00511【平安末期】志度合戦
屋島の戦いにおける平家方の敗因は、敵が陸側からやって来ると考えず油断していたことと、兵を結集させずに分散配置していたことにありました。
屋島から敗走した平家軍は、志度寺(しどでら:香川県さぬき市)に籠もりました。元暦2(1185)年2月21日、義経たち80騎の兵はこれを追撃します。
敵がたった80騎であると知った平家軍は、義経たちに攻めかかっていきますが、そのとき義経の味方の兵が200騎ほど応援に駆けつけてきました。僅か200騎の兵なのに、平家方はこれを大軍と勘違いして慌てて海上に逃げていきました。
義経たちは敗走する平家を追撃し、再び源氏方の勝利となりました。これを志度合戦といいます。
志度合戦の首実検において、義経は伊勢三郎義盛に
「平家方の田口教能(たぐちのりよし:?~1197)を連れてくるように」
と命じました。田口教能は讃岐国の有力武士で、四国における最大勢力です。屋島の戦いで敗れ、志度の近くに逃亡していたところでした。義経としては、ここで田口教能を寝返らせ、味方として取り込んでおきたいと考えたのでしょう。
指示を受けた伊勢三郎義盛は一計を案じました。僅か16騎で教能の陣に赴き、
「平家の公達はほとんど討ち死にし、あなたの父も既に捕虜となっている」
と言って、平家を見捨てるよう説いたのです。しかし実際には教能の父・田口重能は健在で、今も屋島から敗走する平家の船の上にいました。伊勢三郎義盛はさらに、戦死したという平家の公達の名を一人一人挙げていきましたが、そのほとんどは嘘でした。
既に戦意を喪失していた教能はこの嘘を信じ込んでしまい、武具を外して源氏方に加わることを誓約しました。こうして田口勢3千騎の大軍が義経軍に加わりました。
2月22日。ようやく梶原景時らが屋島に到着しました。景時は、舟に逆櫓を取り付けたり、暴風雨が治まるのを待ったり、漕ぎ手を確保したりするのに時間を要したのでしょう。しかし景時が到着したときには全ての戦闘が終了しており、義経軍は
「今頃何をしに来たのか」
と景時らを嘲笑したといいます。こうして、義経と景時の対立はますます深まりました。
一方、平家軍は屋島から敗走し、彦島(山口県下関市)に向かいました。彦島は、本州と九州の境目に位置する関門海峡の上に浮かぶ島で、このあたり一帯を壇ノ浦と称します。
いよいよ、壇ノ浦で源平合戦最後の戦闘が行われることとなります。
