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日本人の物語01166【南北朝末期】南北朝末期概観

歴史以外で「末期」というと「もう弊社は末期症状ですわ・・・」みたいな愚痴で使う機会が多い気がします。

 正平23/応安元(1368)年3月11日から天授5/康暦元(1379)年閏4月23日までの11年間を「南北朝末期」としてまとめます。この時代は、管領・細川頼之がその卓越した手腕で守護たちをまとめていき、内紛が徐々に落ち着いてくる時代です。
 この時期の出来事を簡単に予習すると、次のとおりです。
・応安大法により、幕府が守護の徴税権に一定の制限をかけた。ゆるゆるだった幕府の守護に対するガバナンスが強化された。
・懐良親王が勝手に「日本国王」を名乗って明とやり取りしていたことが発覚し、幕府は慌てて明との交渉を開始した。
・九州探題に就任した今川了俊が大宰府を奪回し、一時は九州を制圧していた南朝勢力の没落が始まった。
・幕府は関白・二条良基と蜜月関係を築き、朝廷・幕府関係は極めて良好であった。
・南禅寺事件をめぐる延暦寺との対立や、春日神木事件をめぐる興福寺との対立に朝廷・幕府は苦慮した。
・土岐頼康が出奔して幕府に反逆の姿勢を見せたものの、大きな戦乱は起こらなかった。
 南朝勢力を北九州から一掃し、幕府はやっと安定し始めました。8年間で仁木・畠山・細川・斯波の4氏が次々と離反した「有力守護の離反ドミノ」といえる状況もようやく収まり、次の11年間では離反した守護は土岐だけです。しかもこれまでは離反した有力守護が南朝と結びつくことで状況が悪化していましたが、土岐頼康が南朝に降ることはありませんでした。また、これまで南朝に降った武将たちも許されて次々と幕府に帰参します。もはや南朝と同盟を組むことが何らのメリットにならないほどに、南朝が凋落していたということでしょう。
 南朝と北朝が戦った「南北朝時代」と呼べる時代は既に終わっており、ここからは「室町幕府が金剛寺に立て籠もる反乱勢力とたまに小競り合いを起こしている時代」といった具合です。南朝が消滅するのも時間の問題ですね。
 これだけ幕府が安定し始めたのは、ひとえに管領・細川頼之の手腕によるものです。頼之はその抜群のバランス感覚で、守護に一定の規制を加えつつも追い詰め過ぎることなく、敵を攻撃しつつも徹底的に殲滅することなく、飴と鞭を使い分ける政権運営を心掛けました。そしてその権力の均衡が崩れたときには、全ての責任をとって辞任することで、将軍義満のキャリアに傷をつけずに済ませるのです。
 本章では、細川頼之の活躍とその辞任(康暦の政変)までを描いていきます。

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