日本人の物語00507【平安末期】屋島の戦い 逆櫓論争
さて、藤戸の戦いは源氏方の勝利に終わったわけですが、しかし範頼は結局「水軍を持つ」という当初の目的を達成できないままでした。平行盛軍もさほどの犠牲を払ったわけではなく、平家は引き続き屋島に大量の兵を擁したままです。
寿永3(1184)年9月1日に京を出発して以来、何らの業績を上げない範頼に苛立った頼朝は、やむなくもう一人の弟に出撃を命じました。こうして翌元暦2(1185)年1月10日、遂に義経が京を出発しました。目指すは平家の総本山たる屋島(香川県高松市)です。
屋島には平家の水軍が集まっていますから、これを叩くには、本来こちらも水軍を用意しなければならないはずです。源範頼はそのために西国に出かけていき、水軍のスカウトに失敗したのです。
しかし、義経はまるで逆転の発想で平家を殲滅しようと考えました。周りこんで南方から陸戦で屋島を叩こうというのです。そのために、阿波(徳島県)に上陸して四国を北上して屋島を目指そうというわけです。
2月16日。阿波に渡るための舟を用意していたところ、義経と参謀役の梶原景時との間で言い争いが生じました。梶原景時が
「舟に逆櫓(さかろ)を取り付けましょう」
と進言したことに対して、義経が
「戦の前から逃げ支度をするとは何事か」
と一蹴したのです。
逆櫓とは、舟を進行方向とは逆方向に漕ぐために必要なものです。景時が、戦闘の状況によっては舟を退避させる必要があると考えたのに対し、義経はそんな景時の考えを臆病だと非難したというわけです。景時は
「進むことしか考えないのは猪武者だ」
と激怒し、両者の考えは折り合わないまま決裂しました。
ちなみに、この逆櫓論争が行われた場所(大阪市福島区)には「逆櫓の松」と呼ばれる老松があったらしく、現在は「逆櫓の松趾碑」が残っています。
さらに2月17日、暴風雨が吹き荒れる中で、義経は出航すると言い出します。船頭や舵取りの男たちは、
「こんな危険なときに出航するとは狂気の沙汰だ」
と反対しますが、義経は
「こんな暴風雨だからこそ、敵も油断しているだろう。今こそ出航すべきである」
と主張してやまず、結局、景時たちを置いて僅か5艘150騎で出航してしまいました。確かに猪武者という表現は的を射ているかもしれません。
翌18日。阿波に到着した義経一行は、陸路で屋島に向かいます。
