日本人の物語01345【室町/義教期】102代後花園天皇
この連載では、天皇の代替わりごとに「〇代〇〇天皇」というタイトルを付しています。神話時代や古墳時代では次々と天皇の代替わりが起こっていたのですが、だんだん1話当たりの進みが遅くなってきましたね。
称光天皇がまたもや病に倒れたのは、正長元(1428)年5月のことでした。例によって祈祷を行おうとするも、声をかけた如意寺満意、三宝院満済、宝池院義賢(ほうちいんぎけん)、聖護院道意(しょうごいんどうい)、随心院祐厳は全員体調不良などを理由に辞退し、祈祷は行えませんでした。
天皇は数年前からいつ崩御してもおかしくないと思われており、次の天皇に伏見宮彦仁王が内定していることは、関係者の間では既に広まっていたでしょう。そうした状況に不満を持ってか、7月6日、南朝皇族の小倉宮聖承が嵯峨から伊勢へと出奔していきました。行き先はかつて幕府への反乱を起こしたことのある伊勢国司・北畠満雅のところです。一波乱起きそうな状況です。
そして7月12日、称光天皇はいよいよ危篤状態に陥りました。義教は万里小路時房、勧修寺経興、広橋兼郷(ひろはしかねさと:1401~1446)らの意見を聴取した上で、彦仁王を天皇に据えるべく極秘に準備を開始しました。
まずは伏見に使者を走らせ、貞成親王に
「彦仁王にあっては、13日に入京されたい」
と連絡しました。貞成親王はそんなに急がねばならぬのかと驚きながらも、息子の即位に向けて準備します。
翌13日には管領・畠山満家が500人を率いて伏見御所まで迎えにやって来ました。彦仁王は洛東岡崎(京都市左京区)の若王子社の坊へと移され、赤松満祐が秘密裏に警護に当たります。
7月16日。義教は後小松上皇を訪ね、称光天皇の主治医が「もう長くはない」と漏らしたとの事実を突きつけて後継指名を急かしました。上皇はかねてよりの予定通り、
「伏見の彦仁を、私の猶子(養子)とした上で譲位させよう」
と返答したので、その日のうちに彦仁王は上皇の猶子となりました。
7月17日に彦仁王は若王子から仙洞御所へと移され、上皇の傍でひたすら時を待ちました。そして7月20日、称光天皇は遂に崩御したのです。かくも秘密裡に譲位が行われた例は極めて珍しいといえます。称光天皇は最後まで、誰が皇位を継ぐのか知らないまま亡くなっていったのでした。
7月28日。親王宣下も立太子もないまま彦仁王は即位し、後花園天皇となりました。
交互に即位するとの約束がまたもや反故にされたわけですから、南朝方はもちろん怒りました。8月になって北畠満雅が小倉宮聖承を奉じて二度目の挙兵を起こし、伊勢守護・世保持頼がこの鎮圧に当たりました。
しかし南朝方の反乱はさほど盛り上がらず、満雅は12月21日に岩田(三重県津市)で戦死し、支援者を失った小倉宮は翌年4、5月頃にむなしく帰洛することとなりました。
南北朝時代が終わった後も、なんだかんだで南朝勢力(後南朝と呼んだ方が良いかもしれません)がたびたび登場しますね。
