見出し画像

日本人の物語00296【平安中期】承平天慶の乱 常陸国府と対立

 そもそも国司というのは中央政府から派遣されてくる役人ですが、一方、郡司はその地域の豪族が充てられるものです。国司と郡司の利害が対立することはよくあることでした。しかし武蔵権守たる興世王の立ち入りを拒否するとは、武蔵武芝もなかなか挑発的です。
 興世王は激怒して、この挑発に乗ってしまいます。武蔵武芝の家宅に押し入って略奪を働いたのです。武蔵武芝は驚いて将門に助けを求めてきました。
 武蔵武芝から依頼を受けた将門は、武蔵国府を訪れ仲裁に当たりました。興世王と武蔵武芝はその仲裁を受け入れ、手を携えることとなりました。
 ところが仲裁中、武蔵武芝の手の者が、勝手に源経基の軍を包囲してしまいます。経基は
「興世王と武蔵武芝が結託して、自分を殺そうとしている」
と誤解し、都へと逃亡していきました。
 都に戻った源経基は藤原忠平に
「将門と興世王が謀反を起こそうとしています」
と訴え出ます。これは全く事実に反することでした。
 天慶2(939)年5月。将門は忠平に対し、無実を訴える文を送りました。この後の将門の態度によっては、反逆人と扱われることはなかったかもしれません。
 その後、百済貞連(くだらのさだつら)が武蔵守に就任し、現地入りしました。ところが武蔵権守・興世王は、この百済貞連と対立し、石井の将門のもとに居つくようになります。
 謀反を疑われているときに、弁解もせず単に興世王を匿ってしまったことは、中央政府に対して疑念を抱かせる行為だったといえるでしょう。
 さて、興世王に続き、将門は更なる厄介者を呼び込んでしまいます。
 今度は常陸国で藤原玄明(ふじわらのはるあき:?~940)という盗賊が不動倉(国司の保有する倉庫)を襲撃し、略奪しました。常陸守だった藤原維幾(ふじわらのこれちか)は玄明を追捕しようとしますが、玄明は石井の将門方に身を寄せ、将門はこれを匿ってしまいます。
 盗賊を匿ったとあっては、盗賊と同罪になります。藤原維幾は将門に対して玄明の引渡しを要求しますが、将門はこれを拒否して、逆に赦免を要求する旨の書状を送りつけました。男気のある将門は、自らのもとに飛び込んできた者を手厚くもてなしてしまうのですね。
 藤原維幾は
「では合戦で決着をつけよう」
と好戦的な返書を送ります。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集