日本人の物語01562【室町/西国/応仁の乱】文明改元
「文明」という元号になったわけですが、この当時は「エジプト文明」「メソポタミア文明」といった意味での「文明」という言葉はなかったようですね。「文明」という日本語を作ったのは福沢諭吉なのだとか。
西岡をめぐっては既に二度も西軍が総攻撃を敢行していましたが、いずれも東軍方の国人衆に撃退されていました。応仁3(1469)年3月16日には逆に国人衆が讃岐守護代・安富又次郎(やすとみまたじろう)の援助を受け、西軍の拠点である西陣の芝薬師堂を攻撃しましたが、西軍に撃退されました。一進一退です。
そして4月10日には西岡をめぐる最大規模の戦乱である第三次西岡の戦いが起こりました。東軍方の安富又次郎が松尾谷(京都市西京区)に、国人衆が寺戸山(京都府向日市)にそれぞれ布陣し、かつて畠山義就に奪われた鶏冠井城(かいでじょう:京都府向日市)の奪回を目指しました。しかし、あらかじめ警戒を強めていた西軍は逆に討って出て、松尾谷を陥落させた上、寺戸山の兵も敗走させました。これ以降、義就は勝龍寺城(京都府長岡京市)を拠点に西岡を支配するようになりました。
元々、上御霊社の戦いが起こったことを受けて戦乱を鎮めるために「応仁」と改元したのですが、改元後により大きな戦乱が起こってしまい、朝廷は更なる改元を検討し始めました。4月28日に「文明」へと改元されたのですが、この改元は異例なものでした。
改元に当たっては、本来は陣定(じんのさだめ)を開いて公卿らが議論すべきところですが、今は法皇も天皇も将軍御所に居住しており、そのような場所でいかなる席順で陣定を行うべきか、先例がなかったのです。当代一の学者でもある一条兼良が知識を総動員して
「新儀として行おう」(前例がないが新たに席順を設定しよう)
と主張しますが、周囲の反対に遭います。
調べてみると、奈良時代に「天平宝字」に改元した際には、陣定を開かずに学者の勘文(諮問に応えて文書で意見を述べること)のみを行ったことが分かりました。この例に従えば、陣定を開かずに済みます。結局、文明改元はこの形式で行われました。
文明改元は、幕府(東軍)が追い詰められており、何らかの打開策を必要としていたことを示しています。確かに東軍はこのところ負けが多く、西軍の戦況は上々です。
調子が乗ってきた西軍は、更なる権威を手に入れようとします。既に将軍(足利義視)、管領(斯波義廉)がいるところに、次は天皇を手に入れようとしたのです。といっても、後土御門天皇は将軍御所にいて手が出せませんから、それに対抗できる南朝方の皇族を大和から迎えようというのです。南朝は政権としては既に滅んでいるものの、後醍醐天皇の子孫が今もなお大和国の山奥で暮らしているので、それを引きずり込もうというわけです。
文明元(1469)年10月5日の尋尊の日記には、
「越智家栄が南朝の皇胤を迎え、西軍と合流しようと上洛を企てているらしい」
と記されています。この企みが上手くいけば南北朝の動乱が再来することになりそうです。
この時代にも公家たちの間では引き続き前例が重要だったようですね。
