日本人の物語01088【南北朝中期】守護たちの対立
遂に足利義満初登場です。尊氏が死んだ翌年に産まれたので、「尊氏公の生まれ変わり」などと言われたそうです。
尊氏の四十九日も終わり、北朝は尊氏に従一位を贈りました。従一位といえば藤原道長や平清盛と並ぶ位階であり、源頼朝の正二位を超える破格のものです。
後光厳天皇は勅使として柳原忠光(やなぎはらただみつ)を派遣して、従一位を与える旨の宣旨を義詮に送りましたが、宣旨を三度拝んだ義詮は涙を抑えながら
「帰るべき 道しなければ 位山 上るにつけて ぬるる袖かな」
(もはや帰ってくることのない故人が位階を上ったと知り、涙が止まらない)
と詠みました。この歌を知った後光厳天皇は心を打たれ、新千載和歌集にこの歌を詳しい詞書(ことばがき)とともに載せました。
さて、尊氏の死から3ヶ月。早くも守護同士の対立が起こります。正平13/延文3(1358)年7月22日、仁木義長が私的な会合で土岐頼康と口論になり、あわや合戦寸前の状況に陥ったのです。
仁木義長といえば3年前にも細川清氏との大喧嘩を引き起こしており、幕府内で徐々に敵を増やしている人物です。兄・頼章が幕府の重鎮なのでその権威を傘にきて、ひどく嫌われるようになりました。
一方、土岐頼康は乱暴者で知られる土岐頼遠の甥で、美濃・尾張守護を務める人物です。初めての半済令は近江・美濃・尾張の三国に対して出されたものですから、幕府から絶大な信頼を寄せられているといってよいでしょう。
つまり仁木義長は、細川清氏・土岐頼康という超弩級の重臣と敵対しているわけで、兄の後ろ盾がなくなればただでは済まなさそうです。
このように、尊氏の死により幕府は早くも内紛の火種を抱えたわけですが、その一方で良いニュースもありました。8月22日、義詮に待望の男子が産まれたのです。
義詮は正室の渋川幸子(しぶかわさちこ:1332~1392)との間に長子を授かっていましたが、これが4歳で夭折してしまっていました。その後、側室の紀良子(きのよしこ:1336~1413)が妊娠し、このたび無事に春王(はるおう:1358~1408)を産んだのです。
この春王こそが、後に3代将軍として君臨し、室町幕府の最盛期を生み出すこととなる足利義満です。
ちなみに義詮の正室・渋川幸子は、中先代の乱で戦死した渋川義季(00829回参照)の娘に当たります。渋川氏は足利家の分家筋であり、幕府内ではそこそこ重視されていたようです。
