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日本人の物語00625【鎌倉前期】実朝暗殺 公暁単独犯説*

 最近注目されている説というのは、公暁の単独犯というものです。
 そもそも、何者かの陰謀が取り沙汰される理由は、義時の突然の腹痛が怪しすぎるからなのですが、この突然の腹痛が、実は『吾妻鏡』編纂者による創作だという説があるのです。
 というのも、同時代を生きた慈円の著した歴史書『愚管抄』には、
「実朝は、太刀を持って傍にいた義時に、中門に留まっておれと言って制止した」
との記述があります。中門に留まるということは、石段を昇り降りするよりも前の時点で、実朝一行の列から離れたということになります。義時はそもそも、鶴岡八幡宮の本殿まで随行することを許されず、石段を昇る予定も降りる予定もなかったというわけです。これでは、公暁が義時を殺害する計画はそもそも無理筋だったということになります。
 『吾妻鏡』は、北条家の責任編集による公式歴史書ですから、
「義時は本殿までの随行すら許されない程度の、身分の低い御家人だった」
という恥ずかしい事実を明かすわけにいかず、やむなく腹痛云々といったフィクションをねじ込んだのかもしれません。建保7(1219)年時点の義時は、実質的には幕政をある程度差配する立場にあったものの、官位という点ではさほどの高い地位にいなかったのでしょう。
 さて、義時がこの陰謀を事前に察知していたわけではないとすると、浮上してくるのが公暁単独犯説です。
 公暁は三浦義村に対し、『吾妻鏡』によると
「今や将軍はいなくなった。私こそが関東の長にふさわしい。速やかに計らうように」
と述べており、一方、『愚管抄』によると
「今や我こそは大将軍であるぞ」
と述べています。いずれにせよ、実朝を殺害しておきながら自分が将軍の地位に就任できると本気で思い込んでいるようなのです。こうした判断力の未熟な19歳の青年のことですから、本気で実朝が親の仇だと誤認したり、何ら事前打合せをしていない三浦の助力が得られると思い込んだりした可能性は否定できません。
 また、公暁はずっと将軍の地位を狙っていたのに、「京から宮将軍の派遣が予定されている」と知って逆上した可能性もあります。親の仇というのは建前の動機であって、実際には宮将軍擁立工作を破壊するために、実朝を暗殺して
「そんな危ないところに息子を派遣できるわけがない」
と後鳥羽上皇に計画を撤回させることが目的だったかもしれません。

寿福寺の中にある実朝の墓。すぐ隣が政子の墓。墓が同一場所にあることからすると、政子は実朝を大切に思っていたようで、暗殺に関わっていなかったように思われる。2022年9月24日撮影。

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