見出し画像

日本人の物語00658【鎌倉中期】89代後深草天皇(持明院統)

 北条経時の4年間の治世のうちに、将軍の交代があったわけですが、京では天皇の譲位がありました。
 九条家が結びついていた順徳上皇の系統が皇位から外され、後嵯峨天皇が即位したことは既に述べました。ここで九条家に代わって実権を握りたい西園寺公経・実氏父子は、これはチャンスとばかりに後嵯峨天皇に接近し、仁治3(1242)年6月3日、実氏の娘・姞子(よしこ:1225~1248)を入内させました。西園寺公経・実氏父子といえば、幕府に近い存在のため後鳥羽上皇から忌避され、幽閉されたことのある人物です。
 8月には姞子は中宮となり、翌寛元元(1243)年6月10日に産んだ久仁親王(ひさひとしんのう:1243~1304)が8月に立太子し、あれよあれよという間に実氏は外祖父への階段を駆け上がっていきました。
 そして寛元4(1246)年1月29日、後嵯峨天皇は譲位し、久仁親王が即位しました。後深草天皇です。
 「後深草」という諡名を聞いて、
「あれ? 深草天皇なんていたかな」
とお思いになるかもしれませんね。実は、第54代仁明天皇の別称が「深草天皇」であることから、「後深草」となったのです。これ以降、別称に加後号を付すケースが多数みられます。
 西園寺実氏が外祖父となったことに、九条道家は慌てたことでしょう。摂関の地位だけは西園寺家に譲るまいと考えた道家は、四男・一条実経を関白に就任させ、関白職を守り抜きました。あわせて、「関東申次は九条道家・一条実経の二人が務めたい」と幕府に申請し、了解を得ました。
 「関東申次」とは朝廷内の役職で、幕府との窓口担当をいいます。「将軍が九条家から出ている以上、鎌倉とのパイプ役は九条家が務めるのだ」という意思表示でしょう。承久の乱以降、朝廷の重要人事の多くは幕府の承認を必要とし、幕府との折衝の成否が最も重要でした。関東申次はある意味、摂政・関白を超える重職だったといえるでしょう。
 九条道家は一度、幕府との重大な折衝に失敗した前科があります。四条天皇崩御時に、順徳上皇の子・忠成王に皇位を継承させることに失敗しているのです。それでも道家は「幕府との関係維持は自分にしか務まらない」との自負を持っていたようですが、5代執権時頼が就任して間もなく、これまで良好に保たれてきた九条家と幕府との信頼関係は完全に崩壊することとなります。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集