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日本人の物語01367【室町/義教期】恐怖政治

義教のパワハラぶりは信長などとはだいぶ違う気がします。闘鶏禁止など、一時の感情に任せて命令している気がするんですよね。

 将軍義教の横暴ぶりについては既に述べてきましたが、その恐怖政治がさらに本格化していきます。
 永享5(1433)年6月。義教が洛中を移動中、一条邸の前で人々が群れをなして大渋滞していたため、立ち往生となりました。その理由は、闘鶏を見物する人々が道にあふれていたためでした。当時、洛中で闘鶏が流行していたのです。
 これに腹を立てた義教は、闘鶏を禁止し全ての鶏を洛中から追放するよう命じました。あまりに身勝手な命令です。
 翌7月には、延暦寺の山徒らによる強訴がありました。山徒らは
「悪どい金融貸し付けをしていた延暦寺僧・光聚院猷秀(こうしゅいんゆうしゅう)から、山門奉行の飯尾為種(いのおためたね:?~1458)と赤松満政(あかまつみつまさ:?~1445)が賄賂を受け取り、便宜を図った」
と主張し、この飯尾と赤松の罷免を求めたのです。しかしこの2人は義教の信頼する側近だったため、義教は激怒して延暦寺を征伐するよう指示しました。
 延暦寺は確かに朝廷・幕府を何度も困らせてきた圧力団体ではありますが、朝廷の守護者でもあります。さらに義教自身が延暦寺のトップ・天台座主を務めたこともあるわけです。その義教が延暦寺を武力討伐するよう指示するとは、幕閣たちは驚愕したことでしょう。
 結局守護たちが必死に義教を諫めたため征伐は実現しませんでしたが、この翌年に延暦寺は別件で炎上する運命にあります。
 8月19日には九州の反乱事件が大きく動きました。大内持世率いる幕府軍が、筑前国秋月城(福岡県朝倉市)を陥落させて反乱軍の大将・少弐満貞を討ち取ったのです。
 反乱を鎮圧して勢いを得た義教は、さらに横暴を極めます。同じ8月、高齢となった山名時熙の後継指名に介入したのです。
 山名家の家督問題といえば、義教は将軍就任前の時点で一度介入したことがありました。応永35(1428)年に時熙が三男・持豊に家督を譲ろうとしたのに、義教は次男・持熙を推薦したのでしたね(01343回参照)。ところがその持熙は、原因不明ながら永享3(1431)年5月に義教の勘気を被って追放されていました。義教の好みはコロコロ変わり、当初は嫌っていた持豊を支援するようになったのです。
 結局、永享5(1433)年8月に時熙は義教の意向に従い、持豊に家督を譲って隠居しました。
 ちなみに翌9月19日に畠山満家が蟲腹(むしばら:寄生虫による病)で死去し、長子の持国が家督を継承しましたが、こちらは義教の介入を受けずに済んだようです。持国が従順だったためでしょう。

延暦寺のトップを務めておきながら、古巣の延暦寺を迫害するとはどういうことなんでしょうね。かつて延暦寺で嫌なことがあって、根に持っているんでしょうか。

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