日本人の物語01611【室町/東国/長尾景春の乱】豊島兄弟登場
豊島と書いて「としま」と読みます。
文明9/享徳26(1477)年1月18日に景春が五十子の陣を襲撃したことは、上杉方を大いに驚かせました。道灌が事前にあれだけ注意喚起していたのに、上杉方は全く本気にしていなかったのです。道灌は景春にこれ以上の行動をやめるよう要請し、景春もこれを承諾しました。
この後、景春は驚きの行動をとります。使者・大石石見守(おおいしいわみのかみ)を道灌のもとに派遣し、「今後どうしたらよいだろうか」と相談し始めたのです。景春は恨みを募らせて主君(顕定)を襲撃しておきながら、その後のビジョンを全く持っていなかったようです。その場の勢いだけで動いていたのでしょう。
道灌は
「かくも大事を仕出かしたのだから、このまま鉢形城にいるのは得策ではない。他国に退去した上で謝罪してはどうか。それなら私も協力する。それが嫌なら、せめて相模国に赴いて当家(扇谷家)を頼ってくれれば何とかしてやろう」
と述べ、どうにかして反乱を交渉によってやめさせようとしましたが、大石石見守は納得できない顔で帰っていきました。その後も景春が鉢形城から退去する様子はありません。
2月になって、道灌は山内上杉顕定に景春との和睦を提案しましたが、景春の反逆に激怒していた顕定はこれを拒否します。道灌はやむなく景春を武力鎮圧せざるを得なくなりました。
この時点で景春方に味方していた有力武将に、豊島泰経(としまやすつね)・泰明(やすあき:?~1477)兄弟がいました。南武蔵を領する豊島氏は、道灌の2大拠点である江戸城と河越城を結ぶ河越街道を封鎖し、連絡を遮断してしまいます。ちなみに豊島氏は東京都豊島区の語源となった氏族ですが、その本拠地はどちらかというと練馬区内にあります。
道灌は河越街道を確保するべく出陣し、3月14日には
・豊島泰経の石神井城(しゃくじいじょう:東京都練馬区)
・豊島泰明の練馬城(東京都練馬区)
の総攻撃を行おうとしましたが、大雨により多摩川が増水し、相模からの援軍が来られなくなり、やむなく延期となりました。
石神井城は現在「東京都立石神井公園」として整備され、堀などの遺構を見ることができます。一方、練馬城については大正時代に遊園地「としまえん」が建設されたことで、その遺構はほとんど失われました。練馬区にあるのに「としまえん」とは不思議なネーミングですが、豊島氏の城跡に作られたことがその由来だったのです。
「としまえん」の閉園後、その跡地にはハリー・ポッターをテーマとした施設が設けられましたが、その一部は「東京都立練馬城址公園」として整備され、練馬城の土塁などがみられるようになりました。
ハリーポッターと練馬城址、それぞれどの程度の来訪者がいるのか気になりますね。
