日本人の物語01495【室町/西国/大乱前夜】武衛騒動 義敏復権
室町幕府のナンバー2「管領」を務める氏族は細川・斯波・畠山の3氏でしたね。
・細川家の本家のことを「京兆家」
・斯波家の本家のことを「武衛家」
・畠山家の本家のことを「金吾家」
といいます。
義尚誕生に前後して、周防で謹慎中の斯波義敏の上洛が許されました。これをきっかけとした斯波家の家督争いを「武衛騒動」といいます。
斯波義敏といえば、関東への出陣を命じられたにもかかわらず、勝手に越前に出兵したことで義政の怒りを受け、周防への流罪を命じられていたのでしたね。その義敏は、伊勢貞親に妾の姉妹を差し出すことで味方につけ、嘆願運動を続けた結果、寛正4(1463)年11月13日に見事赦免を勝ち取りました。とはいえ、上洛まで許されたわけではなく、周防での生活を続けていました。
寛正6(1465)年9月3日。周防で義敏を庇護していた大内教弘が死去したため、義敏はこれを機に上洛したいと幕府に申請しました。
伊勢貞親が上手く働きかけたおかげで、10月22日には義敏上洛の許可が出ました。義敏は12月29日に上洛し、翌30日に義政と対面することができました。
当時、京では
「義敏は 二見の浦の 海士なれや 伊勢のわかめを 頼むばかりぞ」
という狂歌が出回りました。義敏が自らの妾の姉妹を伊勢貞親に差し出したことが功を奏して復権できたので、「伊勢のわかめ(我が妻)」を頼りにする二見ヶ浦の漁師のようだと揶揄したのです。
こんな歌もあります。
「世の中は 皆歌読みに 業平の 伊勢物語 せぬ人ぞなき」
伊勢家の噂話をしない者はない、という意味でしょう。
このように、義敏復権をめぐる伊勢貞親の動きは世間でひどく叩かれました。例の『応仁記』によると、貞親の子・貞宗は義敏赦免について「天下の騒動を招く」として反対していましたが、貞親は子の忠言を聞かなかったそうです。
この貞宗の忠言はフィクションだとしても、狂歌は実際に流行ったものですから、斯波義敏と伊勢貞親の評判が地に堕ちたことは史実でしょう。伊勢貞親は、かつて甲斐常治の妹を妾としていたために義敏を陥れ、今度は義敏から妾をもらったために義敏の味方をしているわけですから、女を差し出せば味方に転ぶ無定見な政治家と言われても仕方がありません。
こうして斯波義敏は見事復権を果たしたわけですが、もう一人の畠山義就は吉野に引き籠もったままです。赦免されたとはいえ、上洛は許されていません。
義敏復権に危機感を覚えたのが、斯波家家督の地位にある義廉です。義廉はどうにかして義敏を失脚させようと躍起になりますが、その焦りから大きな過ちを犯してしまいます。義廉の家臣が、義敏の家臣数名を殺害してしまったのです。これは一大スキャンダルでした。
「我が妻」を「わかめ」と掛ける歌は多いですね。
