日本人の物語00634【鎌倉前期】承久の乱 瀬田橋/宇治川の戦い
幕府軍は、北条時房率いる軍が瀬田橋から、北条泰時率いる軍が宇治橋から、それぞれ入洛を試みます。
承久3(1221)年6月13日。瀬田橋の両側に布陣した朝廷軍と幕府軍が激突しました。
朝廷軍は瀬田橋の板を外して骨組みだけにしてあり、これでは渡ることができません。しかし幕府方の熊谷直国(くまがいなおくに:?~1221)は、その骨組みだけの橋を這いながら、上から降ってくる矢をしのぎながら見事渡り切り、朝廷軍の山田重忠と乱戦となり、戦死しました。
幕府方は「直国に続け」とばかりに勢い付き、次々と瀬田橋を渡って朝廷軍に斬りかかります。翌6月14日には全軍が橋を渡り切り、朝廷軍は京へと逃げ帰っていきました。
一方、宇治川に布陣した両軍も6月13日に激突していました。
折からの長雨で川は濁流となっており、宇治橋は朝廷軍の手で板を外されていました。幕府軍としては川を渡る以外に京へ向かう方法はありません。しかし川を渡ろうとする幕府軍に朝廷軍の矢が降り注ぎ、多くの犠牲が出ました。泰時は
「今日のところは諦めよう」
と判断し、その日の夜は平等院で兵に休息を取らせました。
翌6月14日。少し川の勢いが弱まったところで、泰時は兵たちに浅瀬を利用して宇治川を渡るよう命じました。川を渡る御家人は次々と矢を射られ落命していきますが、多くの犠牲を払いながらも幕府軍はどうにか川を渡り、朝廷軍に攻めかかりました。
このとき、総大将である泰時自身も川を渡ろうとしました。側近の春日貞幸(かすがさだゆき)に止められますが聞き入れません。春日貞幸は一計を案じて、
「甲冑を来たまま川に入って溺れた者がいます。甲冑はお脱ぎください」
と言って、泰時が甲冑を脱いでいる間に馬を隠してしまいます。こうして泰時の命は辛くも救われました。
全軍が川を渡る頃には朝廷軍は京に敗走し、これにて承久の乱の勝敗はほぼ決したといえるでしょう。
6月15日。藤原秀康と三浦胤義は
「御所にこもって最後の合戦をしたい」
と主張するため御所を訪れますが、御所の門は固く閉ざされていました。後鳥羽上皇は彼らを切り捨てることに決めたのです。山田重忠は、
「大臆病の主上(しゅしょう:上皇のこと)に騙されて、無駄死にではないか」
と悲憤したと伝えられています。
