日本人の物語01592【室町/西国/応仁の乱】三河、無法地帯と化す
徳川家康の伝記などを読むと、三河には守護がいないかのような雰囲気ですね。機能していなかったのでしょう。
美濃守護代でありながら越前・近江・尾張の内紛に次々と介入している斎藤妙椿は、続いて三河国にも触手を伸ばし始めました。
三河国では一色家が長らく守護を務めていましたが、一色義貫が将軍義教に誅殺され、守護職は細川持常の手に移りました。持常の死後は、その甥の成之が守護となりましたが、一方で一色義貫の子である義直も三河奪回を望んでおり、一色・細川間の小競り合いが続いていました。斎藤妙椿はもちろん、西軍方の一色義直に味方します。
この頃、東軍方の三河守護・細川成之は在京しており、現地で守護代を務めていたのは駮馬城(まだらめじょう:愛知県西尾市)を拠点とする東条国氏(とうじょうくにうじ:?~1476)でした。この東条というのは、阿波国で阿波守護・細川氏に仕えていた縁で、同じ細川氏の治める三河国の守護代となった一族です。
応仁の乱が始まると一色勢による三河への攻撃が激しくなり、さらには斎藤妙椿が一色勢に加勢して攻め込んでくるに及び、文明8(1476)年9月12日、東条国氏は自害に追い込まれました。
細川家による三河支配は危機に陥りましたが、これを救ったのが日野富子でした。富子は一色義直に働きかけ、
「今後三河には一切関わらない」
との誓約を記した罰文を提出させ、成之を救いました。罰文とは、この約束に違えば天罰を受ける旨を記した誓約書です。
しかし細川家にもはや三河を統治する力はありませんでした。三河は国人たちの群雄割拠の時代を迎え、細川でも一色でもない多数の国人勢力がバラバラに戦うバトルロイヤルの状況に陥ったのです。
詳細不明ですが、代表的な国人の動向を年表形式で記しておきましょう。
・文明7(1475)年: 伊勢氏被官の戸田宗光(とだむねみつ:1439?~1508)が一色七郎(いっしきしちろう)を討ち、田原(愛知県田原市)一帯を支配。
・文明8(1476)年: 一色氏被官の水野貞守(みずのさだもり)が刈谷(愛知県刈谷市)一帯を支配。
・文明9(1477)年: 波多野全慶(はたのぜんけい:?~1493)が主君・一色時家を滅ぼし、長山(愛知県豊川市)一帯を支配。
このように、三河は実力次第で領地をいくらでも切り取れる無法地帯と化しており、ここから脱するには徳川家康の登場を待たなければなりません。
なお、文明10(1478)年に細川成之は三河守護職を子の政之(まさゆき:1455~1488)に譲っていますが、政之が三河守護として動いている形跡は見えません。とても手をつけられる状態ではなかったのでしょう。
毛利元就や織田信長の伝記を読むと、それぞれ序盤の敵として安芸守護やら尾張守護やらが登場するわけですが、家康の伝記を読んでも三河守護は一切登場しません。そもそもいなかったみたいです。
(以下、2026年8月12日追記)
当初は東条国信について、「この東条というのは、吉良氏が東条と西条に分かれたうちの前者の方に当たります」と説明していたのですが、これは誤りでした。どうやら三河国には、「阿波出身で細川家臣の東条氏」と「吉良家が東条・西条の二つに分裂した片割れである東条氏」とがおり、この2家に血縁関係はなかったようです。
