見出し画像

日本人の物語00643【鎌倉前期】鎌倉前期総括

 さて、源氏将軍3代の歴史を見てきました。この時代はスターリン時代のソ連のような粛清に次ぐ粛清の時代であったと捉えてよいかと思います。
 殺害された御家人や頼朝の子孫を一覧にすると、次のとおりです。
・1193年: 源範頼
・1200年: 梶原景時
・1201年: 城長茂
・1203年: 阿野全成、比企能員、一幡(頼家長男)、仁田忠常
・1204年: 源頼家
・1205年: 畠山重忠、畠山重保、榛谷重朝、平賀朝雅
・1213年: 和田義盛、畠山重慶
・1215年: 栄実(頼家三男)
・1219年: 源実朝、源仲章、公暁(頼家次男)
・1220年: 禅暁(頼家四男)
 2年に1回のペースで何らかの粛清が行われていることが分かります。
 粛清された人物は2つのグループに分けることができます。1つは、北条の権力を奪う可能性のある有力御家人(比企や和田)とその縁者です。そしてもう1つは、頼朝と血縁が近く将軍位を狙える人物です。
 頼朝の異母弟に当たる源範頼・阿野全成が殺されたのはそれぞれ頼朝・頼家の指示によるもので、源氏一族の闇の深さを感じます。しかし北条一族の苛烈さはその上を行っていて、頼朝の子孫の男子を一人残らず6人(頼家・実朝・一幡・公暁・栄実・禅暁)とも殺害しているのです。頼朝が清盛直系を根絶やしにしたように、義時には頼朝直系を根絶やしにしようという意図があったとしか感じられません。(ただし実朝についてだけは真犯人が不明ですが。)
 頼朝のカリスマに惹かれて集まってきた武士たちが織りなす鎌倉幕府なのに、その頼朝の子孫を全て殺害した北条が幕府の実質トップとして君臨することに、御家人たちは何の反感も感じなかったのでしょうか。この点、どうも御家人たちには頼家や実朝を尊崇する気持ちが見られず、「実利のある方に味方につく」というルール以外に何らの理念や思想も持っていないように思われます。
 例えば政子・義時が後鳥羽上皇による地頭人事介入を許さなかったのは御家人たちの実利を守るためであって、御家人たちが何を欲しているかをよく理解していたがゆえの決断と思われます。してみると、政子・義時姉弟は御家人たちを統治する上で最も重要な「所領を守る」という原則に立脚しており、それが長きに渡ってトップに君臨できた根源的理由であったといえるでしょう。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集