日本人の物語00248【平安前期】51代平城天皇
延暦25(806)年3月17日。皇太子・安殿親王が即位しました。平城天皇です。
桓武天皇の政治を間近で学んできた平城天皇は、即位早々の5月24日に「観察使」を新設しました。これは勘解由使と異なり、直接地方に出向いて国司の仕事ぶりを監督するものです。桓武天皇の政治をさらに発展させた政策であり、平城天皇の国政への意欲は相当なものだったと推察されます。
天皇即位にあわせて弟の神野親王(かみのしんのう:後の嵯峨天皇)が立太子し、藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ:756~812)が右大臣に就任しました。内麻呂は藤原房前の孫に当たります。
平城天皇と皇太子・神野親王の兄弟仲は険悪でしたが、内麻呂は長男・藤原真夏(ふじわらのまなつ:774~830)を平城天皇に、次男・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ:775~826)を皇太子・神野親王に、それぞれ側近として仕えさせることにより強大な権限を握りました。天皇と皇太子、どちらが権力を握っても内麻呂の家は安泰だというわけです。内麻呂はなかなか老獪な政治家だったといえるでしょう。
平城天皇が即位して1年。にわかな政変が巻き起こります。
大同2(807)年10月28日。藤原雄友(ふじわらのおとも:753~811)が内麻呂に対してこんな密告をして来ました。
「藤原宗成(ふじわらのむねなり:785~858)が伊予親王(いよしんのう:桓武天皇の三男:783?~807)に謀反を薦めたらしい」
というのです。
この密告を受け、宗成は直ちに逮捕されました。宗成の自供によると、
「首謀者は伊予親王とその母である藤原吉子(ふじわらのよしこ:?~807)である」
とのことでした。
続いて伊予親王と藤原吉子を逮捕・幽閉したところ、二人はともに服毒自殺しました。実際は殺されたのかもしれません。藤原宗成は流罪となりました。
この政変を「伊予親王の変」と呼びます。
藤原雄友は南家、藤原宗成は北家でライバル関係にありました。この事件は南家と北家の主導権争いであり、南家が北家の有力者を葬ったもの、と総括することができるでしょう。
ただし、本当に謀反の計画があったかどうか怪しいものだと思います。平安前期は、真実かでっち上げが分からないような謀反計画の発覚で次々と有力貴族が処罰されたり左遷されたりする時代なのですが、その最初の例がこれです。
平安時代中期になると、藤原氏は北家だけが極端に強くなっていくのですが、この時期はまだ藤原氏4家の勢力が拮抗していたようですね。
