日本人の物語01327【室町/義持期】義量死去
5代将軍義量は「よしかず」と読むのですが、そういえば光厳天皇の名も「量仁(かずひと)」でしたね。
応永32(1425)年2月。朝廷と幕府それぞれで若き次世代リーダーと目された人物が相次いで夭折しました。
まず2月16日に皇太弟の小川宮が死去しました。弱冠20歳であり、それまで健康だったので世話係の勧修寺経興による毒殺との噂が立ったそうです。
その直後の2月27日。今度は5代将軍足利義量が満17歳で死去しました。酒の飲み過ぎが原因との説がありますが、定かではありません。
義持には男子は3人いたのですが、残り2人は既に夭折しており、義量は最後の1人でした。息子全員が早くに亡くなったのは義嗣の怨霊のためではないかと噂されました。
次の将軍を立てなければなりませんが、このとき義持はまたもや神仏に占いを立てました。石清水八幡宮の神前で男子出生の成否を尋ね、
「産まれないなら祖父(義詮)伝来の宝刀を奉納いたします」
と述べて籤(くじ)を引いたところ「奉納しなくてよい」との結果が出たのです。
さらにその日の夜、義持は男子が誕生する夢を見ました。義持は「これは神託だ」と深く信じて、あえて猶子(養子)を置かず、6代将軍も置かずにひたすら男子出生を心待ちに待ちました。しかし、結果的にこの占いは当たりません。
義持が息子を失った一方、逆に息子への大いなるチャンスを手にした人物がいました。『看聞日記』の著者で、生涯4度もの冤罪(後述)に悩まされた伏見宮貞成王です。
3月10日。後小松上皇から貞成王に、
「後円融院の三十三回忌の宸筆御八講を執行するので、紺紙金泥御経第五巻、阿弥陀経両巻を写して献上してほしい」
との依頼がありました。要するに、法事のためにお経を納めてほしいとの依頼ですが、紺色の紙に金泥と銀泥とを一行ずつ交代して使うという非常に面倒なものでした。
貞成王は内心面倒と思いながらも二つ返事でこの依頼を引き受け、3月17日に執筆を開始しました。書き損じ防止のために近臣を側に置いて、改行ごとに筆をちゃんと持ち替えるよう監視してもらったといいます。
この経を納めた後の4月16日、なんと貞成王に親王宣下がなされました。54歳での親王宣下は異例であり、これは称光天皇が子を持たないまま崩御する可能性を見越して、貞成王又はその子である彦仁王を皇位に迎えるための準備であろうと受け止められました。貞成親王は「経を進呈した甲斐があった」と喜んだことでしょう。
1行ごとに筆を持ち替えるとは、相当に面倒な写経ですね。後小松上皇としては、親王宣下との交換条件というつもりだったのでしょう。
