日本人の物語01230【南北朝最末期】明徳の乱 内野の戦い
京都府内についての土地勘がある人にしか通じないのが残念ですが、「亀岡市から京都市に行こうとしてうっかり福知山市に行ってしまう」というのは致命的な方向音痴です。
一方山名満幸軍は遅れて京に入りました。既に合戦の鬨の声が聞こえていたため、兵たちは
「しまった出遅れたか」
と思いながら急ぎましたが、そのうち大将である満幸本人がいないことに気づき、探し回っているうちにさらに遅れてしまいました。混乱の中で満幸は自軍とはぐれてしまったようです。
やがて二条大宮の合戦で氏清軍が敗れたとの知らせが入り、意気消沈したところに満幸がようやく姿を現しました。皆がどこにいたのか尋ねると、満幸は
「不運であった。皆とはぐれてしまい、かろうじて馬の足跡と思われるものを追いかけていた。丹波口(京都市下京区)へ出たと思ったところで夜が明けたので辺りを見回すと、大江山(京都府福知山市)にいるではないか。急いでここまで追いついたが、合戦の結果はどうなったのか」
などと言います。道に迷うにも程がありますね。
兵たちが二条大宮の戦いで敗北したことを告げると満幸は
「ならば皆で京に押し寄せて、討ち死にしようではないか」
と言って、突撃することになりました。
満幸軍の主力は土屋宗貞(つちやむねさだ:?~1391)率いる土屋党でした。土屋宗貞は戦の前日、満幸に
「このような大義のない合戦を思い立たれたことは、お家の運の尽きとなるでしょう。満幸様は将軍のおかげでここまでやって来て既に4ヶ国を得たというのに、その御恩を忘れてどうなりましょうや」
と述べるなど幕府への反逆に批判的な上、一族郎党の者には
「とはいえ合戦するからには、人に笑われるような振る舞いはせず、ただ覚悟を決めて戦おう。我々一族の者は、一番に駆け入って討ち死にするのだ」
と述べ、討ち死に覚悟でこの戦いに臨んでいました。
土屋党を主力とする山名満幸軍2千騎が内野に突撃して来た際、そこを守っていたのは細川頼之・畠山基国・京極高詮ら3千騎でした。2時間ほどの戦いの中で土屋党は当主宗貞を始め多くが討ち死にします。さらにそこに将軍御馬廻の5千騎が援軍に現れたため、満幸は丹波へと逃亡していきました。
反乱軍の中で残る大将は山名氏清だけとなりました。
