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日本人の物語01215【南北朝最末期】上皇の乱心

後円融上皇、相当なストレスだったのでしょうね。こんな不名誉な形で歴史に残ってしまうとは可哀想です。まあ無実(?)の罪で殴打された三条厳子の方が可哀想ですが。

 後小松天皇への譲位をめぐって義満と後円融の関係が悪化したことについては既に触れましたが、さらに即位礼をめぐって両者の対立は修復不可能なものとなります。
 後小松天皇の即位礼が予定されていたのは、弘和2/永徳2(1382)年12月でした。9月の時点で義満が即位礼の準備をするよう後円融上皇に促しましたが、上皇はなかなか準備を始めようとしません。一条経嗣は日記で
「即位礼について後見役となるはずの上皇がちっとも動かない」
と愚痴をこぼしています。
 10月25日には二条良基が義満を訪れ、即位礼の段取りについて相談しています。ここでも「上皇が動こうとしないがどうしよう」という話があったのでしょう。義満はあろうことか、後円融上皇を無視して準備を開始してしまいます。
 そして12月28日に行われた即位礼は異例のものとなりました。後円融上皇が欠席のまま執り行われたのです。しかも、本来ならば上皇が行うはずの天皇への所作指導を、義満が高御座を囲む帳の中にまで入り込んで手取り足取り行うこととなりました。
 存在を無視された後円融上皇の怒りは余程のものだったのでしょう。翌弘和3/永徳3(1383)年の元旦、上皇は挨拶にやって来た義満との面会を拒否しました。義満はおとなしく帰宅しましたが、義満が手を回したのか、はたまた公卿らが忖度したのか、他の公卿たちも上皇への挨拶を取りやめてしまい、上皇は孤独な元日を過ごすこととなりました。
 義満との関係悪化のツケは大きいものでした。1月29日、後円融上皇の父に当たる後光厳院の命日であったため仏事が催されましたが、義満は欠席。他の公卿も義満に忖度して次々と欠席し、上皇は一人で仏事を執り行いました。
 最初に意固地になって義満と喧嘩を始めたのは上皇の側ですが、さすがにここまでひどい扱いをされてはたまりません。2月1日、上皇の怒りは爆発し、事件が勃発しました。出産を終えて宮中へ戻った側室・三条厳子に対し、上皇は義満との密通を疑って半狂乱となり、剣の峰で厳子の顔を殴打したのです。厳子は大量に出血し重傷を負いました。
 上皇の母・広橋仲子(ひろはしなかこ:1339~1427)がやってきてなだめますが、上皇の興奮状態は収まりません。2月11日にはさらに、上皇の愛妾・按察局(あぜちのつぼね)もまた義満との密通を疑われて出家させられました。
 2月15日、上皇の側近で特に信頼の厚い裏松資康と広橋仲光が上皇をなだめに来ますが、上皇は「義満が自分に配流を命じに来たのだろう」と思い込み、持仏堂に籠もって切腹を図ろうとしました。
 2月18日に義満が直接上皇と対面し、ようやく和らいだそうですが、ともあれ上皇の精神はすっかり冒されてしまったようです。

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