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日本人の物語01454【室町/西国/大乱前夜】文安の乱

義教はひどく極端な人物でしたが、畠山持国も逆の方向に極端なところがありますね。

【④播磨国における山名宗全と赤松満政の争い】
 嘉吉の乱で赤松本家は滅ぼされましたが、庶流に属する赤松満政はむしろ乱を鎮圧した(赤松本家を滅ぼした)側でした。そもそも赤松満祐が義教を暗殺した原因は、義教がお気に入りの赤松満政を播磨守護に据えようとしたからともいわれています。
 満政は嘉吉の乱での功績を称えられ、播磨国内の明石(兵庫県明石市)・美嚢(三木市)・賀東(加東市)の三郡を与えられていました。播磨守護の山名宗全としては、この三郡だけが自分のものにならず、歯がゆい思いをしていたようです。
 宗全が管領・畠山持国に対して運動した結果、嘉吉4(1444)年1月、この三郡はいとも簡単に満政から召し上げられ、宗全に与えられることとなりました。恐らく義教嫌いの持国は、義教派だった満政をも嫌っていたのでしょう。
 この措置に赤松満政は仰天しました。
 文安元(1444)年10月25日。幕府の措置に抗議の意を示すため、赤松満政は京を出奔して播磨国へ向かいました。これを反逆とみなした幕府は、播磨を領する山名宗全に満政討伐を命じます。
 因縁の赤松・山名の戦いは、12月に真弓峠(兵庫県朝来市)で始まりました。宗全は士気を高めるため、幕府に働きかけて文安2(1445)年2月に後花園天皇から満政追討の綸旨まで出してもらいました。それが功を奏したのか、宗全軍は七宝寺(兵庫県神河町)の戦いで満政軍を破ります。
 敗北した満政は、一族の有馬持家(ありまもちいえ:1396~1450)を頼って摂津国有馬(兵庫県神戸市)へと逃れました。有馬温泉で有名なところです。
 有馬持家は満政を助けて挙兵しましたが、これを知った細川勝元は持家討伐へと動きました。細川家は摂津守護でもありますから、同じく摂津に領地を持つ有馬氏が滅びてくれればありがたいと思ったのでしょう。勝元と宗全は後に応仁の乱で戦う運命にありますが、この時点では利害が一致しています。
 3月24日。有馬において細川勢が有馬勢を破りました。
 敗北した有馬持家は、なんと満政を援助するのをやめ、幕府方に寝返って4月24日に満政を討ち取りました。持家の身代わりの早さはまるで義経を討ち取った藤原泰衡のようですね。この事件を「文安の乱」といいます。
 有馬持家は満政の首を手柄として幕府に申請したものの、その卑怯さを咎められて隠居に追い込まれました。いかに中世といえども、こうしたやり方では出世は難しいのでしょう。

有馬氏といえば長崎県の一族が有名ですが、今回登場したのは有馬温泉のあたりを領地にする兵庫県の有馬氏です。どうも血縁はなさそうです。

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