日本人の物語01389【室町/義教期】嘉吉の乱 討伐戦
中国地方の内陸の地名がいろいろ出てくるんですが、なかなか行く機会がないですね。
嘉吉元(1441)年8月14日からやっと幕府軍と赤松軍の衝突が始まりました。将軍暗殺から実に1ヶ月半が経過しています。
十分な準備期間を持つことができた赤松軍は強く、城山城(きのやまじょう:兵庫県たつの市)に籠城するばかりではなく、討って出て包囲網の一端を担っていた美作国の垪和右京亮(はがうきょうのすけ)の軍に攻め込み、これを落城させました。「垪和」と書いて「はが」と読む実に難しい名前ですが、垪和郷(はがぐん:岡山県美咲町)を拠点とする一族です。
さらに赤松軍は、備前国で松田氏・勝田氏の軍を追い払いました。
両者は一進一退の攻防を繰り広げます。8月19日、淡路守護・細川持親(ほそかわもちちか)の軍船が赤松方の塩屋関(兵庫県神戸市)を焼き払い、勝利しました。一方で同じ日に蟹坂・人丸塚(兵庫県明石市)でも交戦があり、こちらは赤松教康が勝利して幕府軍は須磨へと退いています。一勝一敗です。
結局、赤松討伐で最も活躍したのは隣国但馬の有力守護である山名持豊でした。8月25日に持豊は赤松方の立て籠もる七宝寺(兵庫県神河町)を攻め落としました。同じ日に赤松満政も負けじと山王鼻構(兵庫県たつの市)を攻め落とし、赤松勢は北部と西部から挟み撃ちにされる情勢です。
これだけ追い詰められながらも、赤松勢は屈する気配を見せません。8月21日には、満祐はなんと尊氏の曾孫に当たる足利義尊(あしかがよしたか:1413~1442)を擁立し、幕府に対抗しました。
ここで足利義尊の系譜について解説しておきましょう。
観応の擾乱において、直義党の筆頭として幕府と戦っていた足利直冬をご記憶でしょうか。直冬は中国・九州を拠点に戦い続けていましたが、その死後は子の冬氏(ふゆうじ)が備中国井原荘(岡山県井原市)を拠点に幕府と対立していました。
その冬氏も亡くなり、この頃にはその子の義尊が井原御所で頑張っていたのです。満祐に擁立された義尊は自ら将軍を名乗り始めます。
一方、管領細川持之は義教嫡男の千也茶丸を8月19日に叙爵させ、後花園天皇の宸筆で「義勝」の名を与えてもらったものの、まだ将軍に就任できる年齢ではありません。幕府方の将軍は不在なのに、敵方にだけ(自称ではあるものの)将軍がいるわけで、幕府にとってはどうも体裁の良くない討伐戦となってしまいました。
「せんちゃやまる」かと思ったら「せんやちゃまる」なんですよね。発音しづらいですね。
