日本人の物語00645【鎌倉中期】伊賀氏の変
義時が死去した翌日の貞応3(1224)年6月14日、政子は泰時を3代執権に指名し、六波羅探題を務めていた泰時と時房は急いで鎌倉へ帰ってきました。6月28日付けで泰時が執権に就任します。
ところが、泰時のほかに執権の襲名を狙う人物がいたようです。
7月5日、伊賀光宗(いがみつむね:1178~1257)が有力御家人の三浦義村を頻繁に訪問しているとの情報が入ってきました。伊賀光宗とは、義時の後妻である伊賀の方(いがのかた)の兄に当たります。
政子が詳細を調べたところ、
「伊賀の方は、子の北条政村(ほうじょうまさむら:1205~1273)を執権にし、娘婿の一条実雅(いちじょうさねまさ:1196~1228)を将軍にしようとしている」
というのです。
北条政村は、義時と後妻・伊賀の方の間に産まれた子です。承久の乱の戦闘やその戦後処理で大いに業績を上げてきた泰時を差し置いて、未だ何ら功を挙げていない政村に執権を継がせるなど本当にできると思っていたのでしょうか。また、一条実雅は公家であり、九条家が将軍職を継げるならば一条家も同様に資格があるはずだと考えたのかもしれません。
7月17日、政子は三浦義村を訪問し、聞こえてきた噂について詰問しました。義村はごまかしていましたが、政子が再三に渡って問い詰めたところ、
「政村には異心はないが、光宗にはそのような考えがあるようです。私から諫めてみます」
と返答しました。自分も光宗の計画に乗ろうとしていたのに、諦めて光宗を売ったのかもしれません。
話を聞いた泰時は
「政村にそのような考えはないだろう。私としても、政村と敵対するつもりはない」
と、穏便に事を終わらせようとの考えを述べました。
閏7月1日。政子は4代将軍に内定している三寅の住む御所に泰時と義村を呼び、
「しばらく一緒にいるように」
と命じました。義村が土壇場で裏切ることを恐れ、軟禁しようとしたのでしょう。
こうして伊賀氏の計画は失敗に終わり、8月29日、伊賀の方は伊豆国北条に、伊賀光宗は所領を没収され信濃国に、それぞれ流罪となりました。さらに10月10日には一条実雅は越前に流罪とされました。
こうした政争に際して、誰をも殺さずに乗り切ることができたのは、重鎮政子のおかげかもしれませんが、温厚で知られる泰時の人柄によるところも大きかったでしょう。
事実、政子の死後、泰時は伊賀光宗の所領を回復させ、鎌倉に呼び戻しています。泰時は父・義時と異なり、できるだけ敵を作らない政権運営を心掛けていたようです。
