日本人の物語01533【室町/東国/享徳の乱】かつてない攻勢
関東に住み始めた当初は「関西に比べて史跡が少ないなあ」などと思っていましたが、関東戦国史を見ていくと実はかなり史跡が多いことに気づきます。
文明2/享徳19(1470)年になりましたが、相変わらず戦はほとんど起こらず睨み合いが続くだけでした。この年に起こった合戦といえば、千葉家の内紛くらいです。
千葉家では、上杉方に寝返った松渡城(千葉県松戸市)の原朗意を討つべく兵を挙げました。7月24日に我孫子(千葉県我孫子市)で千葉家と原家の合戦がありましたが決着がつきません。8月12日には上杉方の急先鋒であった原朗意が死去したことから、千葉家の内紛も落ち着いてきました。
文明3/享徳20(1471)年3月には新たな方面での合戦がありました。膠着状態を打開しようと考えた古河公方成氏が、なんと直接堀越公方を攻めるべく、小山持政・結城氏広を伊豆三島(静岡県三島市)に送り込んだのです。さすがにこの奇襲は成功せず、堀越公方を守る扇谷上杉家の矢野安芸守(やのあきのかみ)に撃退されました。
この伊豆三島での戦いは『鎌倉大草紙』という成氏を中心に描いた歴史書にしか出てこず、史実かどうか争いがあります。上野国・下野国が主戦場となっている状況で、古河を拠点とする成氏方が突然遠方の伊豆国に攻め込むというのは、確かにリアリティに欠ける気もします。
応仁の乱と享徳の乱、京と東国で別々に発生した戦乱がいずれも膠着状態に陥り、さすがに危機感を覚え始めた将軍義政は、4月13日に越後上杉房定に対して出陣を命じました。さっさと攻撃しろというのです。将軍から直々の命を受けたため、上杉方のかつてない攻勢が始まります。
4月15日。長尾景信の軍が成氏方の赤見城(栃木県足利市)を攻略しました。さらに樺崎城(栃木県足利市)をも攻め、城主・南持宗(みなみもちむね:?~1471)を討ち取る戦果を上げました。この頃、ほぼ同時に八椚城(やくぬぎじょう:栃木県佐野市)をも陥落させています。
5月に入って上杉軍は立林城(群馬県館林市)の攻略にかかりますが、この城にはひどく苦戦したようです。5月23日にようやく陥落させ、次なる舞木城(群馬県館林市)の攻略にかかりますが、この城も多くの犠牲を出しつつどうにか陥落させました。
上杉軍から再三に渡る帰順勧告を受けていた小山持政は、上杉方の攻勢を見て遂に寝返りを決めました。成氏の忠臣として兄弟の契りまで結んだはずの小山持政の帰順を受け、大いに勢い付いた上杉方は、小山から程近い佐野盛綱(さのもりつな)が守る甲城(かぶとじょう:栃木県栃木市)の攻略にかかります。
しかし、甲城は堅固で知られる山城でした。上杉方がいくら焦っても、甲城は全く落ちません。
立林(館林市)にしても、松渡(松戸市)にしても、地名の漢字表記というのはコロコロ変わっていくものなんですね。
