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日本人の物語01169【南北朝末期】漆川の戦い

本連載ではこれまで山形県の市町村の登場回数が非常に少なかったのですが、ここでたくさん登場しましたね。

 正平23/応安元(1368)年7月。寒河江大江家の当主・大江時茂(おおえのときしげ:?~1373)は、敗走してきた脇屋義治を匿い、鎌倉公方軍と戦うための兵を挙げました。
 大江時茂軍の編成は次のとおりです。
・溝延城(みぞのべじょう:山形県河北町)を拠点とする時茂の長男・茂信(しげのぶ:?~1368)
・左沢楯山城(あてらざわたてやまじょう:山形県大江町)を拠点とする時茂の次男・元時(もととき:?~1368)
・白岩城(しらいわじょう:山形県寒河江市)を拠点とする茂信の子・政広(まさひろ)
 大江軍の兵力はよく分かっていませんが、数百から数千程度とみられます。
 一方、鎌倉公方側の兵力は圧倒的でした。奥州管領・大崎直持(おおさきただもち:1327~1383)と羽州管領・斯波兼頼(しばかねより:1316~1379)が声をかけると、数万の軍が集まったというのです。なお、斯波家兼が奥州管領として着任して中新田城(宮城県加美町)に土着し(01084回参照)、その子の直持以降は大崎姓を名乗っています。
 両軍は漆川流域の諏訪原(山形県大江町)で激突しますが、まるで戦いになりません。数に劣る大江軍は敗走して荻袋楯(山形県大江町)に立て籠もりますが、そこもすぐに包囲され、長男茂信・次男元時を含む一族61名が自害しました。これを漆川の戦いといいます。
 昭和初期に山形県大江町の長泉寺から大量の人骨が発見され、ここが漆川の戦いで敗北した61名が自害した場所であることが判明しました。
 なお、脇屋義治はこの戦いでどのような役割を果たしたかはよく分かっていません。当然、大江氏とともに戦ったはずですが、戦死したか生き延びたかも不明で、没年すら明らかではないのです。
 さて、息子2人を失った大江時茂はこの戦いの5年後に病死しますが、死に際して四男・時氏(ときうじ:?~1391)に対し
「鎌倉公方に降伏せよ」
と遺言しました。この遺言を受け、時氏は自らの子を人質として差し出すことにより鎌倉公方に降伏しました。そしてこれ以降、大江姓をやめ寒河江姓を名乗り始めます。「寒河江時氏」の誕生です。
 こうして武蔵平一揆が南朝方と呼応して起こした反乱は、全て鎮圧されました。河越直重の盟友であった宇都宮氏綱は河越合戦に敗れて宇都宮城に逃亡していましたが、9月には降伏しました。
 一通りの反乱鎮圧を終えた上杉憲顕は、9月19日、燃え尽きるように世を去りました。関東管領の座を引き継いだのは、子の能憲です。上杉能憲といえば、高師直・師泰兄弟を独断で討ち取ったことで尊氏から死刑宣告を受けた人物ですが(01024回参照)、この能憲の存在が鎌倉府をますます幕府と対立する方向に導いていくのです。

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