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日本人の物語01645【室町/西国/六角征伐】真弓峠の戦い

朝来市と書いて「あさごし」と読みます。特に有名な史跡は「天空の城」と言われる竹田城ですね。

 さて、文明15(1483)年12月25日には東側の戦線も動きました。赤松政則は山名政豊軍を迎え討つため真弓峠(兵庫県朝来市)に出陣しましたが、山名方の垣屋熙続(かきやひろつぐ)の軍に大敗し、姫路への撤退を余儀なくされました。おまけに赤松政則は姫路に逃亡する途中で行方知れずとなります。
 軍の指揮を放棄して単独で逃亡した赤松政則の態度に呆れ果てた浦上則宗は、文明16(1484)年1月、幕府に対して
「政則を廃して、赤松庶流の有馬澄則(ありますみのり)を三国守護(播磨・備前・美作)にしたい」
と申請し、これが認められました。赤松政則は確かにひどい主君かもしれませんが、勝手に主君を廃してしまうとは、浦上則宗もひどい家臣です。
 赤松家臣らの中には浦上則宗に従う者もいれば嫌がる武将もいました。結局、赤松家は一体となって山名と戦うことができず、備前・美作は山名軍に占領されてしまいました。
 一方、浦上則国の福岡城も1月6日に総攻撃を受け、遂に陥落しました。このとき、
・薬師寺四郎左衛門(やくしじしろうざえもん)
・額田十郎左衛門(ぬかたじゅうろうざえもん)
・片岡孫左衛門(かたおかまござえもん)
の三人が
「真弓峠で本軍が敗れたらしい。我々も負けるだろうが、枕を並べて討ち死にしよう」
と言って覚悟の戦死を遂げたとのエピソードが残っています。
 行方不明となっていた赤松政則は3月になってやっと現れ、上洛して幕府に掛け合い、その結果浦上則宗と和解して三国守護に返り咲くこととなりました。このとき政則の名誉回復に奔走したのが家臣・別所則治(べっしょのりはる:?~1513)であり、政則はこれ以降別所則治を信頼し続けることになります。逆に、浦上則宗に対しては相当な警戒心を抱き続けたでしょう。
 これ以降、赤松政則と浦上則宗は協力して山名に奪われた備前の奪回を目指すこととなります。恐らくお互いへの嫌悪感を持ちつつ仕方なく手を組んだのでしょう。
 その後、守護赤松家と守護代浦上家の対立は息子たちの世代へと受け継がれ、両者は「敵との戦闘の最中」という最悪のタイミングで決裂を迎えることとなるのですが、それはまだ先の話です。

赤松氏と浦上氏の確執については是非覚えておいてください。といってもこの伏線が回収されるのは1531年の大物崩れの時ですから、だいぶ先ですね。

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