見出し画像

日本人の物語00303【平安中期】承平天慶の乱 純友死す

 天慶3(940)年10月。瀬戸内海で在原相安(ありわらのすけやす)率いる政府軍が純友に討ち取られました。
 追捕使の小野好古らは瀬戸内海で純友を探しましたが、なかなか見つかりません。
 しかしここで重要な情報が入りました。純友配下の藤原恒利(ふじわらのつねとし)が純友を裏切って讃岐国府に投降してきたのです。恒利の情報により、純友の拠点が伊予国日振島と判明しました。
 天慶4(941)年5月。純友は大宰府を襲撃し、占領してしまいます。大宰府が反乱軍に占領されるとは前代未聞の事態です。
 朝廷は坂東から戻った藤原忠文を、今度は征西大将軍に任命しました。
 しかし藤原忠文の活躍の場は一切ありませんでした。忠文が博多に到着する前に、小野好古・源経基が博多に攻め入り、大宰府を奪還したのです。
 敗れた純友は伊予に逃げ帰りますが、警固使に捕らえられ、6月20日に獄死しました。
 さらに同年10月、反乱軍の幹部だった藤原文元は日振島の本拠地を捨てて逃亡していましたが、但馬国で見つかり殺害されました。
 こうして平将門の乱と藤原純友の乱という朝廷を揺るがす2大反乱事件はようやく幕を閉じました。
 これら平将門の乱と藤原純友の乱をあわせて「承平・天慶の乱」といいます。しかし「将門・純友が反乱を開始したのは天慶2(939)年であるから、承平(931~938)を入れるのはおかしい」との意見もあり、「天慶の乱」と呼称する説もあります。
 将門と純友が果たして相談した上で同時に反逆を起こしたかどうかは分かりません。お互いを意識していただろうとは思いますが、おそらく相談までは出来ていなかったと思われます。
 しかし後世になってから、この2人は「腐敗した政府に反逆した英雄」と捉えられ、共同謀議して同時に反逆したという伝説が広まるようになりました。
 2人は青年時代に都に住んでいましたから、その頃に2人して比叡山に登り、
「将来将門が天皇に、純友が関白になろう」
と謀議したというのです。
 こうした伝説が広まったことからも、当時の庶民が政府にいかに不満を抱いていたかが分かります。
 確かにこの時代、庶民は飢餓と重税に苦しむ中、為政者たちは荘園経営により私腹を肥やすことにかまけていました。この現状に真に向き合い、改革しようという動きが現れるのは治暦4(1068)年の後三条天皇の即位を待たねばなりません。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集