日本人の物語00646【鎌倉中期】北条泰時の人柄 吾妻鏡の評価*
3代執権に就任した北条泰時について悪く言う者はいません。歴史家の上横手雅敬氏が泰時の伝記を書くに当たって、
「誰か泰時を悪し様に言っていないか」
と探したところ、いくら調べても悪口が見つからなかったというほどです。
とかく「人格者だった」というエピソードが豊富に残されている泰時ですが、そのいくつかを紹介しましょう。
泰時がまだ9歳で、「金剛」という幼名で呼ばれていた建久3(1192)年の出来事です。泰時が散歩していると、乗馬で通りかかった多賀重行(たがしげゆき)が下馬の礼をせずに通り過ぎていきました。これを聞いた頼朝は、
「多賀と北条とでは格が違う。若輩だからと侮って礼をしないとは何事か」
と多賀重行にひどく怒りました。多賀重行は
「きちんと下馬をして礼をしました」
と嘘をつき、泰時も多賀を庇って
「多賀のいうとおりです」
と述べました。これに対して頼朝は
「調べれば分かることなのに、嘘をついてごまかすとは何事か」
と激怒し、多賀の所領を没収し、一方泰時に対しては
「庇い立てをするとは心ゆかしい奴だ」
と褒め、剣を授けたというのです。建久3(1192)年時点で北条がそこまで格の高い家柄であったかどうか、やや疑わしく、後世の創作である可能性もあります。
次に、建仁元(1201)年10月のエピソードです。伊豆の百姓らが、領主から借用した出挙米の返済ができず逃亡の準備をしていたところ、領地を視察に来た泰時は百姓らを集めて返済を肩代わりして証文を燃やした上、酒や米を振る舞ったというのです。
吾妻鏡の貞応3(1224)年9月5日の条には、義時の家督を継いだ泰時が父の遺産配分を定めた話が記録されています。泰時が遺産配分の結果を書類にして政子に渡したところ、これを見た政子は
「あなたの分がほとんどないではないか」
と指摘します。泰時は
「執権を承った身として、なぜ所領を競い望むことができましょうか。ただ舎弟らに分け与えようと思います」
と述べ、「権力を手にしたからには私心を捨てるべき」との考えを示したというのです。
泰時は父や祖父のような独裁者にならず、多くの御家人から慕われる為政者であったといえるでしょう。

