日本人の物語01653【室町/西国/六角征伐】尼子経久の城奪回
現在のところ1年半くらいの貯金がある(来年末くらいまで下書きを書いている)のですが、非常に不安です。できれば6年分くらい貯金したいです。
文明18(1486)年の元日、出雲守護代の尼子経久(あまごつねひさ:1458~1541)が月山富田城(島根県安来市)を乗っ取るという事件が発生しました。ここで出雲情勢を説明しておきましょう。
近江守護の京極持清が出雲守護を兼任していたこと、出雲統治は守護代の尼子清貞に任されていたこと、尼子清貞が松田備前守の反乱を鎮圧し、出雲に大きな影響力を持ったことは既に述べました。ところが尼子家は清貞の子・経久の時代になると、主君の京極政経に疎まれるようになり、文明16(1484)年3月に寺社領を押領した罪で尼子経久討伐令が出され、守護代の職を剥奪され、居城・月山富田城からも追放されてしまいました。
ここからはいかにも創作めいた話なのですが、そのまま紹介していきます。
出雲を追放された経久は、鉢屋衆という芸人集団と出会い、その長である鉢屋弥之三郎(はちややのさぶろう)と意気投合します。2人は話し合い、月山富田城奪回の策を練りました。その策とは、毎年元日に城で行われている「万歳」の門付き芸(いろんな館を訪問して行う芸)を、新しい守護代・塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)の前で披露し、一同の気が緩んだ隙に奇襲をかけるというものでした。
文明18(1486)年1月1日。経久は鉢屋衆とともに城内に入り、見事作戦通りに城を奪回しました。その後、鉢屋衆は尼子家に仕える忍者集団となり、様々な戦で活躍することになります。
万歳の門付き芸をきっかけに月山富田城を奪回したのは嘘だとしても、この頃に守護の京極家を追い出して尼子が出雲を統治したのは事実のようです。ここで尼子経久の性格を窺わせる『塵塚物語』所載の話を紹介しておきましょう。
経久は家臣に対して非常に優しく接する人物でした。家臣が経久の持ち物を褒めると、経久は必ずそれをその場で家臣に与えてしまうので、家臣は気を遣って経久の持ち物を褒めなくなりました。
あるとき、家臣が「これなら大丈夫だろう」と思って、庭の松の木を褒めたところ、経久はその松を掘り起こして家臣に譲ろうとし始め、周囲の者が慌てて止めました。結局経久は、その木を切って薪にして渡してしまいます。経久はそれほどまでに物欲と無縁の人物で、「天性無欲正直の人」と評されました。
この後、尼子経久は伊勢盛時(北条早雲)らとともに戦国大名の先駆けとなり、中国地方に大きな影響を持つ大大名となります。
「万歳の門付き芸」というのがどんなものなのか気になりますが、分かりませんでした。
