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日本人の物語01349【室町/義教期】宇陀の郡内一揆

今回初登場の「大乗院経覚」は割と重要人物です。高校教科書には出てきませんが、ベストセラーになった呉座勇一氏の『応仁の乱』では主人公格として扱われていました。

 日本史上初めての一揆である正長の土一揆が起こりましたが、その直後には
・宇陀の郡内一揆
・播磨国一揆
という二つの一揆が同時発生しました。まず前者の方から説明していきましょう。
 当時、大和国には守護が置かれず、興福寺が事実上守護の役割を果たしていました。その興福寺には、「大乗院」「一乗院」と呼ばれる塔頭(たっちゅう:付属の寺院)があり、
・近衛家が一乗院に
・九条家と一条家と二条家は大乗院に
それぞれ子弟を送り込み、その院のトップである「門跡(もんぜき)」に就任させる慣例がありました。門跡になると、その後は興福寺のトップである別当を目指します。このような「大乗院」「一乗院」を中心とした興福寺の体制を「両門体制」といいます。
 なお、一乗院はやや南朝寄り、大乗院はやや北朝寄りといった政治的傾向がありますが、常にそうというわけでもありません。
 当時の興福寺別当は、関白九条経教(くじょうつねのり:1331~1400)の子・経覚(きょうがく:1395~1473)でした。大乗院門主を経験しているので「大乗院経覚」とも呼ばれます。
 近江・京で発生した正長の土一揆は周辺国にも飛び火し、経覚が治める大和にも迫ってきました。正長元(1428)年11月、北からは山城国の一揆勢が、南からは宇陀の一揆勢が興福寺に迫ります。北の備えについては興福寺の命を受けた筒井氏が迎え討ちますが、戦況の不利を悟った経覚は早期に徳政令を発布し、一揆を抑えにかかりました。
 しかし南方の宇陀の一揆は収まりません。というのも、興福寺と対立関係にある大和国人の沢氏・秋山氏がこの機に乗じて荘園を収奪しようと、一揆勢を支援していたのでした。この沢氏・秋山氏と連動した一揆を「宇陀の郡内一揆」と呼びます。
 経覚は正長2(1429)年2月11日に上洛して13日には将軍就任直前の義教に謁見し、一揆鎮圧について義教から慰労の言葉をかけられました。この直後、経覚は六方衆(僧兵たち)を宇陀に派遣して鎮圧に当たらせる旨を幕府に申請し、その承認を得ています。ほとんど大和守護として働いているようなものですね。
 2月23日。興福寺の六方衆が宇陀に進攻し、その圧倒的な戦力を見た沢氏・秋山氏はなすすべもなく逃亡しました。こうして経覚はかろうじて宇陀の郡内一揆を乗り切りました。

「塔頭(たっちゅう)」や「門跡(もんぜき)」といった専門用語が出てきました。ちなみに本連載にたびたび登場する三宝院満済も、今小路家から醍醐寺の塔頭である三宝院の門跡となった人物です。

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