日本人の物語01616【室町/東国/長尾景春の乱】小机城の戦い
長尾景春はどういうつもりで戦っているのか、謎です。成氏と上杉の和睦が上手くいったら、景春はそのまま討伐対象になってしまうと思うのですが。
豊島泰経蜂起との情報を受けて、文明10/享徳27(1478)年1月24日、太田道灌は倉賀野城(群馬県高崎市)から河越城(埼玉県川越市)に移りました。
1月25日に河越城から出陣した道灌は、膝折宿(埼玉県朝霞市)に布陣して平塚城(東京都北区)を攻撃しました。敗れた豊島軍は丸子(神奈川県川崎市)まで撤退します。
1月26日に道灌が丸子まで追撃してきたため、豊島軍はさらに小机城(横浜市港北区)まで逃げていきました。
小机城はなかなか堅固な城で、2月6日から総攻撃をかけたもののなかなか落とせません。そうこうするうちに、長尾景春が小机城を救援しようと出陣してきました。道灌は小机城攻略を一旦諦め、武蔵へと引き返さざるを得ません。
3月10日。上杉・太田軍と景春軍が浅羽(埼玉県坂戸市)で激突しました。敗れた景春は敗走し、成田(埼玉県行田市)へと撤退しました。3月19日には、景春は反撃を期して千葉孝胤とともに羽生峰(埼玉県滑川町)まで進軍してきましたが、道灌が弟の太田資忠軍を派遣すると、景春・孝胤は戦わずして再び成田へと撤退していきました。
はて、成田というのは古河公方成氏が在陣しているところです。景春は成田から出陣して上杉軍と戦い、成田へと敗走したわけです。これは成氏と上杉方の停戦協定を無視した行動ではないでしょうか。まして、景春は成氏家臣の千葉孝胤を同伴していたわけですから、成氏は停戦協定違反に問われても仕方ありません。
しかし上杉方がその矛盾を突いて成氏を追及しようとした形跡はありません。このあたりの歴史は読んでいて訳が分からなくなってきます。成氏と景春は同じ地に在陣しているのに、別の軍とみなされていたのでしょうか。
景春の援軍が得られなかったため、小机城は孤立無援となりました。道灌は再び小机城の攻撃にかかりますが、このとき近くの松の木の下に腰を下ろして
「小机は まず手習いの はじめにて いろはにほへと 散り散りになる」
と戯れ歌を詠み、小机城は簡単に落とせると豪語したといいます。「小机」という地名を、子供がいろはを勉強するときに使う「小机」とかけて、敵兵を散り散りにできるという駄洒落です。
道灌はまず敵の支城である篠原城(横浜市港北区)を攻め、その後奇襲をかけて4月10日に小机城を陥落させました。豊島泰経は死んだのか逃亡したのか不明ですが、この後の活動がみられず、滅亡したものとみられます。
戦場でもユーモアのセンスがありますね。
