日本人の物語00813【建武期】建武の新政
後醍醐天皇は
「光厳天皇が使っていた神器は偽物で、本物は自分がずっと持っていた」
と主張していましたが、その一方で光厳天皇から「偽物」の神器を没収しました。極めて矛盾した態度ですね。
さらに後醍醐天皇は、鎌倉幕府が立てた皇太子・康仁親王を廃し、その親王号をも奪って「康仁王」に格下げしてしまいます。幕府がせっかく大覚寺統の康仁を立太子してくれたのに、我が子に天皇を継いでもらいたい後醍醐天皇としては、同じ大覚寺統であっても兄の孫に当たる康仁は邪魔者だったのです。
光厳天皇はというと、即位していた事実を否定されたものの、しばらく後に「太上天皇(上皇)」の号を許されることとなりました。即位をなかったことにするのと「上皇」と呼ぶこととは矛盾していますが、かつて天皇になったことのない人物に太上法皇の号を送ったケースとしては後高倉法皇の例がありますし(00639回参照)、後醍醐天皇にとっては敗者に情けをかけてやったつもりだったのでしょう。
さて、後醍醐天皇の親政が始まりました。ここから始まる新たな政治を「建武の新政」といいます。混同しやすいのですが、「親政」とは天皇自らが政務を行うこと、「新政」とは新たな政治体制のことを指します。つまり「建武の新政」は建武という元号の時期に行われた新たな政治という意味です。実際には建武と改元されるのは翌年の話なのですが。
元弘3(1333)年6月15日。天皇は
「今後は土地問題など全ての政治決定は私の名の文書を必要とする」
という方針を明らかにしました。天皇の命令書のことを「綸旨」と呼びますが、全ての所領領有権は綸旨で再確認することとしたのです。これを「個別安堵法」といいます。
後醍醐天皇としては、自分が聞いていない段階で勝手に政治的な決定がなされてしまうことを予防するつもりだったのでしょう。しかし何もかも天皇の耳に入れるというのは現実的ではありません。側近らが
「先例はこうなっていますから、それに従いましょう」
と言って天皇を止めようとしますが、それに対して後醍醐天皇はあの有名な言葉を言い放ちます。
「朕が新儀は未来の先例たるべし」
私の新しい政治形態こそが、未来において先例となるのだというのです。改革の旗手らしい発言です。
