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日本人の物語01062【南北朝中期】山名父子離反

山名っていうと山名宗全が有名で、その領地は但馬国(兵庫県北部)のイメージですよね。しかし最近ニュースで「群馬県高崎市山名町」というのが出てきて、ふとその地名が気になって調べてみたら、なんと山名発祥の地は群馬県であることが判明しました。どの武士も大移動しているものですね。

 観応の擾乱という北朝内部の抗争も一旦収まりを見せ、さらに武蔵野合戦・八幡の戦いと東西双方の合戦で南朝に勝利し、いよいよ室町幕府の支配は盤石かと思われましたが、ここで再び時ならぬ内紛が持ち上がります。その内紛の主役は山名時氏・師義父子でした。
 山名師義は八幡の戦いで大きな功績をあげたので、きっと多くの褒賞がもらえるに違いないと期待していました。
 師義が幕府に対して申請した内容は、若狭国の今富名(いまとみみょう:福井県小浜市)の知行を回復してほしいというものでした。ここは本来山名家がもらえるはずの土地だったのを、未だに拝領できていなかったのです。
 こうした訴えを将軍に届けるための仲介役を務めていたのが、引付頭人(ひきつけとうにん)の佐々木道誉でした。引付頭人とは引付衆の筆頭の者を指します。つまり裁判長のようなものです。
 ところが師義が道誉を何度訪ねても、「今日は連歌のご会席です」「今は茶会の最中です」などと理由を付けて、全く面会してくれません。これがあまりに度重なるので、師義は
「かくも無礼な扱いを受けるとは。謀反を起こして天下を覆し、思い知らせてやる」
と怒って、家に戻るとすぐに郎党にすら知らせず、伯耆(鳥取県)に帰国してしまいました。山名の兵たちは慌てて700騎で主君師義を追っていきました。正平7/観応3(1352)年8月26日の夜のことでした。
 このように太平記は謀反の原因を「道誉の居留守」であると伝えていますが、こんなどうでも良いようなことで一国がまるごと幕府に反旗を翻すなどということがあり得るのでしょうか。実際にはもっと複雑な原因があったと思われます。
 伯耆国に到着した師義は、父・時氏に対して、
「面目を失ったので、将軍に暇を申さずに帰ってきました」
と告げました。詳細を聞くと時氏も幕府の措置に怒って、さっそく南朝方の御旗を揚げ、北朝方の役人たちを次々と追放してしまいました。幕府を倒すために南朝と手を組むことにしたのです。
 さらに味方を募ったところ、周辺の武士たちがすぐに味方してくれたため、あっという間に出雲・伯耆・隠岐・因幡の4ヶ国が南朝方につくこととなりました。
 山名勢が南朝に味方する旨を吉野に伝えたところ、南朝方も喜んで、
「同時に京都を攻めよう」
という計画が立てられました。
 南朝は戦闘準備にかなり時間を要したらしく、山名勢と南朝勢力による京都攻めは、翌年6月に始まることとなります。

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