見出し画像

日本人の物語01531【室町/東国/享徳の乱】膠着状態

享徳の乱はあまりキャラが立ってない登場人物が多いんですよね。キャラが濃いのは足利成氏と太田道灌くらいでしょうか。

 享徳の乱が始まってから、はや10年以上が経過しました。
 この頃には大規模な合戦はなくなり、古河と五十子に布陣した両軍が睨み合うばかりで、しばしば小競り合いが起こる程度の膠着状態が続いていました。
・文正元/享徳15(1466)年10月25日:矢木船津(千葉県流山市)
・応仁元/享徳16(1467)年4月14日:野田(千葉県野田市)
でそれぞれ代理戦争といってもよい小規模な合戦がありましたが決着はつきません。また、10月18日には信濃国人・村上頼清が海野(長野県東御市)を拠点とする海野氏幸(うんのうじゆき:?~1467)を討った事件がありましたが、これは享徳の乱とは無関係な国人同士の抗争とみられます。
 9月7日には、扇谷上杉家の当主である持朝が死去しました。子の顕房は既に戦死しているため、家督は16歳の孫・政真(まさざね:1451~1473)が継ぐこととなりました。
 享徳の乱も長期化し、徐々に世代交代が進んでいます。12月24日には佐竹義人が死去しました。
 ここで佐竹家について復習しておきましょう。
①佐竹義人は長男義俊を嫌い、次男実定を可愛がった。享徳の乱が始まると義俊が成氏方、義人・実定が上杉方となった。
②佐竹実定が病死したため、義人は実定の子の義定に家督を継がせようとするが、常陸国人らが反発した。やむなく義人は長男義俊を呼び戻し、家督を継がせた。かくして佐竹家は上杉方から成氏方となった。
 義人が死去した後、家督継承に失敗した義定は太田城を退去し、水戸城の江戸通長(えどみちなが:1450~1494)のもとに身を寄せました。水戸江戸家は常陸国内で数少ない上杉方だったのです。
 ところが、義定は義俊が送り込んだ刺客に襲われ、水戸城内で殺害されます。恐怖した江戸通長は成氏方に降伏し、これ以降は成氏方として行動することとなりました。
 さて、上杉方と成氏方の戦いは続きます。
 応仁2/享徳17(1468)年10月8日には、交通の要衝である足利荘(栃木県足利市)をめぐって茂呂島・綱取原の戦い(群馬県伊勢崎市)が起こりました。広瀬川を挟んで東側の茂呂島に成氏軍、西側の綱取原に上杉軍が布陣し、河原を舞台に戦ったところ、上杉方が勝利し、成氏は桐生(群馬県桐生市)へと敗走していきました。
 文明元/享徳18(1469)年8月には、上杉方の岩松家純が上野国内の成氏方を駆逐し、新たに金山城(群馬県太田市)を築きました。北関東では上杉方がやや有利になったといえそうです。

水戸城はこの時点ではまだ江戸氏が治めています。佐竹氏が治めるようになるのはまだまだ先です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集